写真・絵画で甦る太田川 

写真・絵画で甦る太田川 
(77)大正時代の思い出


 大藤さんは可部で生れ、大正三年に当時の中原小学校に入学。その後、お父さんの仕事でソウル(当時は京城)に家族で転居するまで可部で暮らしておられました。そこでまたその頃の話しを出していただきました。

 ▽桜島の灰が降った

 大正三年、小学校入学問もなく鹿児島県の桜島が大噴火して広島県方面までもたくさん灰が運ばれてきた。朝、学校へ行ってみると渡り廊下に沢山積もっていた。先生がそれをかき集め、渡り廊下の片隅にある硝子窓の戸棚に飾られた。

 次に、何年生の時か覚えていないが高等科受け持ちの先生がある日、頭をくりくり坊主にして朝礼台に上がられ、「召集されましたから、シベリアにこれから出征します。」と挨拶された。それからどれ程の時が経つたであろうか。無事に帰って来られ、前と同じように朝礼台に立たれ、「シベリアから帰って来ました。これがお土産です。」と言って、白樺の皮を見せてくださった。その白樺の皮は鹿児島の火山灰の隣に飾られた。両方とも私か六年を卒業するまで同じ所にあった。
 

 ▽七夕さん

 夏の夜の楽しみは、月夜に友達と影踏みをして遊ぶことであった。それよりももっと楽しいのは七夕さんであった。子どもの居る家が二、三軒で組んで、納屋にひな壇のように五、六段作り、畠にできた瓜や茄子、南京、豆、また素麺なども並べて飾った。短冊を結んだ笹竹をその横に立てた。そして夜ともなれば十人くらいが一列に並び。「ネンニーイチドノータナバタサーマヨー・・」と太鼓を叩きながら歩く。途中で他の組に出会うと、お互いに負けないように声を張り上げて歌い大変楽しかった。八月六日の夜は大きい子どもだけが納屋に一緒に眠り、夜明けに起き出して畠のズイキや里眉の葉にたまった夜露を集めて硯に入れて畢をすり、笹に付けてある短冊をとってきて「お星さま」「天の川」などと書いた。七日の昼前には太田川にその笹竹を皆で持って行き、川の深い所へ流した。

 ▽スミスの宙返り飛行

 大正六年か七年だったか、弟と私は学校を早引きして、スミスの宙返り飛行機を見るために父に連れられて広島に行った。スミスという米人の飛行機が空に舞い上がり、宙返りを何回もするのを十分に見て帰った。その後スミスの飛行機と言って、可部の町でも模型飛行機の材料を売る店ができた。

 ▽米騒動

 大正七年の暑い夏の夜だった。半鐘で目が覚めた。蚊帳を出て外の様子を伺うと可部の街中でざわめきがあり、暫くして誰かが知らせてきた。朝になって騒ぎに加わったとして近所のAさんBさんらが警察に引っ張られたとの噂が流れた。そして米は当分配給だという事で暑い日中に根の谷川傍の配給所に長い列で待つ苦労が暫く続いた。

 
 
(幸田光温) 
 
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