写真・絵画で甦る太田川 

写真・絵画で甦る太田川 
(76)造船七十年 職人 川口九一さん


 川口九一さんは水内川の太田川合流点、下村の大前で明治28年(1895)に生れ、16歳の時に対岸の坪野で船大工をしていた久賀孝右衛門の所に弟子入りした。五年後に独立し、まず武者修行だと言って高梁川(岡山県)の船造りを習ったり、玉島へ出て海の船造りを経験したり、など数年間方々歩いた後で故郷に帰って大前浜に船小屋を建て「川口造船」を始めた。九一さんのことを話す前に、坪野の久賀のことから述べよう。

 久賀は孝右衛門(1840〜1963)が岩国の方で船造りを習って来て始めたのだという。それまでの加計・坪野辺の船に比べて久賀の船は取り回しが軽いことから注文が多くて繁盛したという。孝右衛門の長男の杢一(1875〜1963)も父を継いでこの仕事をした。その親子の元で九一少年や他にも二人の弟子が入っでいた。しかし久賀の造船はこの二代だけで、その子の冬鯉(とうり)は医師となった。杢一の弟の恵造は小学校の教師となり、その子の三千馬(みちま)も医師となっている。
 
 
  大前浜の川口造船は三年後にずっと川下の毛木へ移転した。この訳は一つには恩を受けた久賀のすぐ対岸で競り合う形になるのを遠慮してのことだろうが、もう一つ、彼は四男一女の次男であり、その年に結婚したこととも重なる。大正十年、船小屋は解体して筏に組み、多少の家財もその筏に載せて毛木(現在安佐北区安佐町飯室)まで流して行った。こんな引っ越しは当時に川があったが故の便利な移転であった。

 それ以後四十年間・・大船主体の時代は初めの十年ほどで、それからは鮎とり船になるが・・毛木の川口造船は繁盛した。現在可部の中屋にある太田川唯一の造船所で仕事をしている川口悟さんはこの毛木で生れた。毛木から中屋への移転は昭和36年で、この時も船小屋は解体して運んでいる。

 九一さんという職人はまず弟子人りして親方の家の農業や家事手伝い・見習い工としての厳しい修業をし、更に他県への出歩きで人間修業も含めて広い技術の習得をした。この広い経験が彼の特性を創ったといえよう。二代目の悟さんから聞いた話しによると、毛木で育った子供時代、学校から帰ると船板を挽く仕事を毎日させられていた。よその子が皆遊んでいるのでつい仕事をサボッたら、それが見つかって猛烈に怒られたという。そんな職人性があるが、一方で伝統にとらわれない面もあり、船板の接合に太田川の造船業者で最初に接着剤を取り入れたのは九一氏であった。それ以前に太田川船の用材に大畠の萬屋を通じて飫肥杉を購入したのも九一氏が最初であった。「太田川造船組合」の寄合いがあって酒が入ると、きまって浪花節を唸り始めるのも九一氏であったとか・・結婚した年に盲腸を患った他は八七歳で亡くなるまで風邪もひかない丈夫な体だった。

 
(幸田光温) 
 
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