写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(72)町での新式機械競争

 近代の新式農具競争 明治後半期から昭和初年にかけて、農村地域から都市へ出て行って一旗揚げようと試みる人達が一般的に見られた。成功した人もいるが、うまくいかなくて何処かへ移動した例もある。例えば、特許を得るような発明をして、広島に製造工場を持って製品にし、広く販売して利益を上げようと試みる。筆者は特許庁に残っている農具の特許番号を見せてもらい、その中からそれ以後の特許取得者がどういう活動をしてかを調べて歩いたことがある。本誌でも5年前のこの欄で宥免彦太郎の足踏脱穀機の事を書いているが。宥免が日浦村筒瀬から広島へ出て製造販売を始めたのは大正中頃からと思われる。それより前に三上や富田の例がある。

 三上庄蔵は比婆郡口北村の農家の二男だった。彼が口北村長の世話で回転脱穀機で特許を取得したのは大正二年、県では最も古い。彼は自分の田畑を売り、また親類の援助も受けて広島大手町四丁目に家を借りて製造販売を始めた。これも広島では最初だった。しかし製品は殆ど売れなかった。扱き歯に問題があったようだ。

 次に出てきたのが甲立村秋町の富田兄弟である。富田家は元々は世羅郡で家大工をやっていたのが明治末に秋町に来た。糸三郎、助五郎、五一、源六の四人兄弟で、これも特許取得は大正二年に源六の名前になっている。聞き取りに秋町の富田家を訪れたのは30年も前の事だから、当時はまだ糸三郎の娘のサダさん(明治41年生れ)がいて話を聞くことができ、その時複写させてもらったのがこの写真である。場所は広島西寺町でちょうど別院の前だった。富田式回転稲麦扱機の大看板が上がっており、製品を前にして撮った記念写真である(大正7年撮影)。人物の名前が裏に書いてあった。右端頭巾と合羽は職人の玉利徳一。二番目の和服に鳥打帽が店主の助五郎。学生帽の少年は助五郎の子供。四番目が源六。左端の後ろ向きは甥の栄一郎である。長男糸三郎は秋町で家大工を続けていた。この特許は発明者が富田源六、特許権者福場亮三の名になっている。富田兄弟が請け合いで福場の家の建築をしており、広島に出るのも福場の世話になっていたようだ。最初の特許製品は手回し式だったが、続いて足踏式特許を出して成功していた。販売はほぼ順調に伸びたのだが、調子に乗って大正11年に鉱石株に手を出したためそれで失敗した。翌年には店の権利を他人に譲って助五郎親子はブラジルへ渡り、源六は九州へ移った。開店から十年経たずして店仕舞いとなったわけである。

 それに比べると広島西引御堂町に出て工場を持った宥免は昭和初年まで廿年近く続いており、当時の同業者の中では成功と言えるだろう。宥免の場合は壬生の三宅鉄工所や甲立の桑岡商会と組んで県内の北西部に販路を広げ、また改良を続けたことが成功につながった理由であろう。
 
(幸田光温) 
 
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