写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(70)太田川造船組合の結成

 太田川流域の舟運の最盛期においては造船業者のいた地区は全体で17箇所も挙げられる。その内、久地村追崎(おっさき)には一時期5軒もの造船所(船小屋)があったというから、その技術者の人数はもっと多い。しかし運送業が馬車や自動車の時代になっていくと舟運は上流の方から次第に消えていき、造船業者も上流の方から廃業していく。昭和年代に入ると加計、向光石、坪野、津伏などの業者はいなくなった。

 そんな中、昭和8年に結成されたのが『太田川造船組合』である。その規約は21条からなるが、「本組合ハ組員相互カ親睦ヲ図リ共存共栄ヲ旨トシ・・(第3条)」「本組合ハ値段ノ統一ヲ図リ、一定ノ販売所ニ於テ販売スルモノトス・・(第4条)といった組合規約の条項に見られるように、その目的は残った業者の中で一人が安売りして価格の安定を壊すようなことをさせない為であった。その方法として、製品の船は一定の販売所で売る。値段は選ばれた役員が定める。組合員には一定額の積立金をさせておき、もし規約を破って安売りが発覚した場合は総会を開き、積立金の没収、違約金の取り立てなどを行うこととした。この時、組合員となった造船業者は、

 船本保五郎(明治11年生)安佐郡原村東原
 小田七五郎(明治16年生)安佐郡久地村
 金岡徳市(明治20年生) 安佐郡久地村
 武井唯一(明治21年生) 広島市牛田町
 藤井寅一(明治24年生) 安佐郡原村西原
 川口九一(明治28年生) 安佐郡飯室村
 金本説吾(明治34年生) 安佐郡久地村
 小田達男(明治22年生) 安佐郡八木村

 上の8名であった。このうち武井は三篠川筋、三田で造船業をやっていたが、三田筋は芸備鉄道がついた為に本流筋より一足早くに仕事がなくなり牛田に出てきていた。小田、金岡、金本は久地村追崎で血縁関係にあり、もう一人の小田も同じ追崎から八木に出た。上の写真は小田家の造船所(船小屋)で明治以前に建てられたという。現在に残る最古の船小屋である。これを建てた小田本家は屋号を船元と言ったが早くに造船の仕事をやめたので、分家していた七五郎の父の九衛門が受け継いだ。

 この組合が出来た時期、太田川の造船技術者全員が組合に入ったのかというと、例外が一人居た。川内、中調子の神田台造さんである。いろいろ批判もされたようだが、断固加入を断った。理由は、自分の船は他より一割高く売っている。高く売るんだから組合に入って値段を決めてもらう必要はなかろう、というものであった。多分に名人気質もあってのことだったと思われる。

 この組合は長く続かず、川から大船はなくなって漁船だけの時代となる。小田七五郎氏の船小屋は息子の一美氏(いちみ)に受け継がれたが、その没後の現在では漁船格納の役を果たすのみとなった。
 
(幸田光温) 
 
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