写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(66)明治・大正時代の狩留家のこと


 石田清市さん談

 石田清市さんは明治25年生まれでこの聞き取りをした時は既に90歳を過ぎておられたが元気で、裏山での椎茸栽培などの仕事も続けておられた。


◎狩留家の浜のこと


 狩留家は明治22年に隣の小河原、上深川と合併して狩小川村になり、昭和30年に深川村も一緒になって高陽町になったということですが、わしらはここからえっと余所へ行くこともなあですけ。狩留家の中でここは西部落言います。この前にある橋を中西橋、渡った向こうが中須賀部落。それより小川を隔てた向こうが町部落になります。中須賀に古屋浜がありこの浜が昔の年貢米を出しよったころからの浜なんです。その時代は豊田郡や世羅郡の一部の村から湯坂の垰を越えて年貢米をこの浜まで馬で運んで、ほいから船へ積んで広島へ運びよったんですの。年貢米がないようになってからは狩留家の荷、これは主に割木ですが。それと人も乗せた。わしが覚えとる頃の船は松本瀬吉、田中千代松、川村慶助、福永…ありゃあ名は彦さん言いよったの。ほいで割木を積んで出た船は今度は上り荷に石灰や干鰯や下肥を積んで戻る。町部落の川村の店がそういう物の問屋でしたよ。肥料です。
  
◎狩留家の農作業

 今頃は5月下旬に田植えをするが、麦を作りよった頃は6月中頃だったですけぇ、その前に堰をして水を引く。ほいじゃけえ船は稲の頃は通われんわけです。この辺では西の堰(イゼ)、上中イゼ、中須賀イゼがありました。稲が一尺くらいに育ったら肥料にするニシンを押切で切って稲に挿しよりました。畑にはサツマイモ、藍、それに麻も作った。麻の畑は鳥追い鳴子を張って小屋を建てて、その番をするのが子供の仕事でしたの。荒苧で仲買に出した。
 
◎小学生時代の思い出

 わしらの頃は小学校は尋常科4年まででした(義務教育が6年になったのは明治40年以後)。わしが小学校の2年生の時にここの船二艘で広島へ遠足で行ったことがありました。その時初めて蒸気船いうものを見た。「富山丸」いうて書いてあったのを今も不思議によう覚えとります。

 尋常科を出て高等化へ入りました。中深川にある高陽高等小学校で、それまで可部にだけあったのがわしらの時に初めて川のこっちに新しいのが出来たんです。その頃は男子に比べて女子の生徒が少なかった(『高陽町史』所載の統計によると高陽高等小学校の明治37年の生徒数は男子169名に対し女子38名と著しい差がある)。ほいで農業いう科目もあったの。

 あの頃は広島へ行くのはたいがい船に乗るが、歩いていく時は朝3時に家を出て福田を通っていくんです。船で行っても帰りは可部線の軽便で横川から中島まで乗って中島から歩いて戻りよった。いっぺん終便に乗り遅れて一晩中歩いて帰ったことがありました。
 
◎船−馬車−鉄道

 芸備線が大正4年に走るようになって船が無いようになったんじゃあないんで、その前に道路広うなり馬車が通るようになって船に乗りよったもんが馬車引きになったいうことです。芸備鉄道狩留家駅ができても貨物の扱いは船の時の問屋が続いてやった。狩小川村より川下は上深川の庄原浜には大正末まで船があった。
(幸田光温) 
 
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