写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(65)西条農学校と筒賀村林


 4年前の本誌12号に大正9年に筒賀村の山林において西条農学校の生徒がキンマの引き出し作業をしている写真を載せたことがあった。戸河内町の民俗研究者だった故人佐々木侑輝先生のお父さんが同校の大正9年の卒業で、その卒業アルバムに収められた貴重な歴史写真として見せていただいたのである。そのアルバムには他にも筒賀にあった宿舎の写真と生徒が船で帰る時の写真がある。西条農学校は大正5年に林業科を新設したその実習地となった筒賀村では大正8年より村内の猪股山に130町余りの山林を提供し、生徒の宿泊施設として敷坪32坪(建坪64坪)の2階建て和風建築と4壺の風呂などの付属建築を新築し、無料で使用させるなどの便宜も図った。

 実習は4月に10日間、7月に20日間、10月に10日間と年間に3回、内容や学科別に3年生によって行われた。生徒はみんな体力や根気のいる作業に従事した。植樹、下刈り、測量など7月の20日間は特に汗水流しての作業だった。それを毎年続けて昭和5年までにスギ、ヒノキ、サワラを主として約4万本、面積にして10町歩の山林に苗を植えた。ところがこの実習はやがて危機を迎える。広島県から降りていた補助金が県の財政難ということから打ち切りとなったのである。今までは費用の総額のうち60%を広島県が、40%を筒賀村が負担してきたのがどうにもならなくなったのである。西条農学校はやむなく実習林を昭和12年に筒賀村に返還せざるを得なくなった。こうして西条農学校と筒賀村との関わりはなくなったわけである。宿舎の2階建ての建築を見てもなかなか立派なもので、村が相当の力を入れていたことがうかがえる。


 上の写真はまだ始まったばかりの時期で、10月の実習を終えて今から帰っていくところであろう。筒賀川が本流に合流するところ、筒賀松原から船に分乗した生徒と教官の姿が見える。背景に石崖と桟道吊り橋が見える。(現在はこの桟道は車がやっと通れる広さになっている。吊り橋もある。その対岸には現在は中国自動車道の戸河内インターがある。)

 生徒たちは来る時は歩いて来たのだろうが帰りは各船に10人余りと教員が乗っての船下り。この年代にはもうここ松原が船の一番上の浜になっていた。ここから広島の矢倉の下までは8時間以上の行程であり、途中にスリルを味わう場所がいくらもある。写真の3艘の船には周囲に炭俵が並んでいて、荷船についでに乗せてもらったように見えるが、これは波除になる。それでも澄合まで行ったら全身ずぶ濡れになっていることもある。
 
(幸田光温) 
 
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