写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(63)似島の語るもの


 今回は川から海へ出てみよう。
 宇品の先約3キロ。周囲10キロの小島で北部に278m、南部に203mの小山がある。似島と呼ばれる広島湾上のこの優しい姿の小島は明治になって国策を背負わされ酷使され、あげくの果て、最後の最後には大量の犠牲者を看取ることまでやった。

 今は故人となったが古市郷土史会員だった井出本護さんはこの島の負わされた歴史の残酷さについて語られたことがある。その時の内容を思い出して綴ってみることにする。

 まず、島の名についてだが、一般に地名は呼び名に文字を嵌める為に色々な字が出てくることがある。年代順にしてみると、

1、見の嶋

 天正16年(1588)毛利輝元が厳島を船で出発。上洛の際に随行の従者の書いた日記に「申の刻厳島を出船され酉の刻に見の嶋に御着候・・・」とある。

2、箕の島

 寛文3年(1663)『芸備国郡志』には箕の字があり、周辺の人が遠望した形が農家で使う箕に似ているところから呼んだのか。

3、二ノ嶋

 享保年代(1720頃)『広島藩覚書帳』但し一ノ嶋はないので二は「荷」ではないか?荷継ぎの場所であったから。

4、似島

 文政年代(1820頃)『芸藩通志』に初めて似島が「形富士に似たり俗に小富士と呼ぶ」として登場してくる。


 次にこの島の住人と産業だが、最初にここに居住したのは佐伯郡白砂村の農家三戸で、元文5年(1740)に荒神社が創設されている。1820年頃には安芸郡仁保島村の行政区域に入っており、戸数50で鰯網漁を盛んにやっていた。また1864年(御領分諸色有物帳)には砂利の産地と出ている。

 明治になって、米、麦、雑穀、甘藷、葡萄など農作物も産するようになるが、明治27年の日清戦争以後一挙に島の様子は変わった。宇品港を経由して兵員、武器輸送の基地となる。また翌年には陸軍検疫所が開設される。これは戦役から帰ってきた人夫が発生源とみられるコレラが広島市中で流行したことで急遽民有地を埋立造成したもので、以後は戦場からの帰還兵全てを検疫するようになる。明治38年の日露戦争ではロシア兵の俘虜収容所にもなった。

 昭和4年に仁保島と共に広島市に合併。その後決定的な不幸がこの島に訪れた。原爆の被災である。被災者のうち此処に運ばれた人の数は1万余名というが、その数は分からない。次々亡くなる遺体は島の各所に埋められた。今も当時の防空壕の中などにその儘の遺体があるのではと言われる。また被災孤児を収容する養護施設が造られ、後に似島学園と改称して現在に至っている。

(幸田光温) 
 
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