写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(62)筏乗りの話


 今までにも筏の話はしてきたがもう少し続きをしたい。今回は筏に乗って流して行く。組んだ者の中でくじを引いて乗り手を決める所もあり、専業の乗り手を雇うこともあるが、筏乗りの技術や神経は船乗りとは全く異なるものだったようだ。

 船乗りタイプと筏乗りタイプがある。昭和になってまず船の仕事がなくなり、川を知っているからということで頼まれて筏に乗り換えた人も何人かいたが、わしには合わん、と一様に戸惑ったという。船では荷積み・操船など自分ですべてくなす訳だからうまくいかないのは自分に責任がある。しかし筏の場合はいくら川の様子が分かっていてもまず筏がしっかり組めているか。自分で組む場合でも組み難い木があるし流れの悪い木もある。
例えば杣が木を切り倒す時に一方から斧を入れ、反対側から鋸で伐るので木元は多少段状になっている。この部分をバチと呼ぶのだが、木の中にはこのバチが極度に長いものがあって大変組み難い。バチが当たったと言って嫌っていた。
また檜の皮つきの材は流している間に皮が剥けてきて水の抵抗を増し、石に掛かったりもする。また、ミオでアユ漁をしている漁船に接触する事故も時々あった。声をかけても漁に夢中で聞こえないことがあるのだ。

 船と筏と両方が泊まる宿の女将は船乗りの方を手厚くもてなす。それは船は到着時間出発時間がほぼ決まっているのに、筏はいつ来るか、或いは来ないか不明で、まとめて飯を炊くことができないのだ。

 他にもある。出発の際、木材店宛の送り状を預かって行く。これは筏を組んだ時、役場の係員が来て末口何寸、長さ何尺の木を何本運送と計測して書いたもので、課税の根拠となるものである。広島に着いて筏を引き渡すと木材業者は木を測って確認するが、時によって送り状と合わないことがあるのだ。これは筏乗りの責任ではないが帰れない。

 上の写真は辻河原の筏乗り栗栖億市さん(明治26年生まれ)。21歳から筏乗りを始めた。当時の加計には佐々木と梶原の回漕業者がおり、丁川の永代橋の上と滝山川とでも組んでいたが、多くは戸河内から来る筏を中の渡り(小学校の沖)で中継していた。朝加計を出るとその日は間野平か毛木に泊まり、翌日広島に着いて鍛冶屋町に泊まるか安まで戻って泊まる。それは順調な時で途中で引っ掛かって5〜6日かかることもあった。それでも正地の堰ができるまでは職業になったのである。

(幸田光温) 
 
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