写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(61)小浜簗と資料


 落ち鮎などを獲る簗(ヤナ)のことは今までに書いた事があるが、今回は当時の文書を見ていただきながら説明したい。

 簗という漁業は川を堰いて流れを人工的に変えるという土木工事を行うものだから、明治以後は県知事の許可を得なければならないことになっていた。ところが「お役所仕事」という言葉があるように、当時の役所の事務は実に手ぬるい。申請をして二カ月経っても何も返答がないので遂に督促状を出した。ということをこの控え写しが物語っている。

 安佐郡(現在安佐北区)久地村(右岸)・小河内(左岸)の間の「イラカ瀬」に簗設置の為「水面使用願、并て漁業免許の下附をさきに久地村役場を経由して提出したが今に何らの御沙汰がない。設置上の都合もあり出願者は案じている。何とぞ至急御許可相成りたく・・・。という意味で、代表者内藤俊明氏の名で5月1日に出されている。

 この通称小浜簗は太田川においては附地簗とともに最大で、堰の長さが300mもある。流れを堰いてウドグチから落として竹を組んだ部分に受け、流れてくる魚を捕えるわけだが、山で伐採した松、杉、槇や竹を運び、堰造り、土台造り、ナル・ハワセ・オオドコといった本体造り、岸から棚迄の橋造り、など四カ所を入札で請け負わせてから造作にかかる。
明治40年の総工費がいくらだったのかの記録は無いが、昭和初年には1200円程もしたという。その総工費を100で割ったものが1株である。一人で数株買うものもいれば、3〜4人で1株というのもあった。株の代金は現金を払う者もいるし、工事に加わってその日当を充てる者もいる。魚が獲れるのは水が出た時だからその年によって差があり、年平均4回程度。その収穫も年によって随分違う。当然持ち株の割に現物または売上金で配当される。

 さて、前に戻るが、明治40年の県告示記録を探してみると、この内藤代表の申請の受付許可は7月15日になっている。許可期間は20年で、その後は昭和12年に代表者内藤正夫氏に受け継がれた。しかし、昭和18年の大洪水の為に完全に破壊、流出しそれが最後となった。上の資料は内藤一平氏提供。


(幸田光温) 
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。