写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(60)幻の七郷音頭と貴重なオオカミ標本


 太田川中流澄谷から西宗川を遡ると4キロ程で出口に至る。それより左折、谷川沿いに登る。この谷を空谷と呼び、名護木(なごぎ)、香郷(かご)、横山を通って峠越えすると12キロで加計の丁川(よろがわ)に至る。名護木の左手の山へ入って行くと千本(せんぼん)があり、香郷の左手に入ると野影(のかげ)という集落がある。野影と横山とはそれぞれ上と下に分かれているのでこの谷間には合わせて七つの集落がある事になる。以前に横山の吉田角禧さんや香郷の大前慈朗さんに話を聞いた事がある。

 山で割木や木炭を作り、澄谷まで搬出するのが主な仕事だった。明治初年にはこの谷に150戸の家があったが明治24年に96戸に減った。それでも明治35年に横山までのシャリキ道が出来た祝いには芝居を呼んできて吉田家の前の田んぼで興行し、地元だけでなく長笹、吉木の方の人も集まって賑わったという。

 大前さんは香郷の福光寺の住職だったが、その話では明治初年にはここに福光寺、法正寺、礼安寺の3つの寺院があったが、明治24年に法正寺は下の東周川に移り、礼安寺は加計の土居に移り、ここには福光寺だけが残った。昭和初年、地域の景気つけをしようと話し合い、「七郷」と呼ぼう。名前だけでなく唄を作ろうということになり「七郷音頭」を作って発表した。しかし、残念ながら殆ど流行らなかったらしい。どんな唄だったのかご住職もあまり記憶にないようだった。

 平成の時代になると戸数はさらに減り45戸になった。上の写真は上横山の棚田の風景で標高400mの水田である。これより登ると赤垰を越えて長笹に行く道と、砥石垰を越えて丁川に下りる道に分かれる。


 さて、この空谷が全国版になっているものがある。オオカミである。福光寺の大前慈朗住職は17代目だったそうだが、その曾祖父14代の開善師が藩政時代の末期に寺の前で退治したオオカミの骨と言われるものが当寺に代々伝わって来た。所謂「狼伝説」は各地に残っているが、骨もあるのは珍しい。その骨が果たしてイヌの野生化したものではなく実際にニホンオオカミのものか?疑問があったが、加計町史の編纂にあたって町では専門家を招いて鑑定を依頼した。その結果、頭骨の各部を計測してほぼ間違いないという結論が下されたという。頭骨の他に右足の一部もあり、これらは貴重な標本として保存すべきで県下は勿論中国地方で唯一のニホンオオカミの標本であるという。(『加計町史地誌編』参照)

 この他にも空谷には以前はツチノコを見たという人が多かった。これは証拠として残っているものがないことと、最近その話が影をひそめたことが淋しい。誰か探検に行く人はいませんか?
(幸田光温) 
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。