写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(58)戸島川と長田川 近世〜近代の通船


 三次から広島へ、年貢米や鉄が運送されていた時代、船で吉田まで運び、吉田から長田の高大地まで馬に積み替え、そこからまた船に載せて広島へ送った。長田は現在の向原(向井原)、当時の長田村でこの川は三篠川(当時は長田川〜三田川と呼んだ)で途中に更に2箇所の中継箇所がある随分面倒な運送であった。三次〜吉田間は29キロあり荷物を積んでの遡上だから2日かかる。吉田から高大地までの陸送は10キロ近くある急坂の峠越えであるため苦労した。そこで江の川の支流戸島川に船を入れることになった。戸島川は5万分の1の地図で見てもはっきりしない程の川だが、おもしろいことに三篠川と戸島川とは上流地点が接近していて、それでも逆方向に流れていく。一般に言うところの分水嶺が無い。したがって吉田へ登る途中の下小原から戸島川へ入り、上限で荷物を下ろして高大地に運べば吉田からの峠越えの苦労がなくてすむということだった。

 この戸島川水運については『高田郡史』や『甲田町史』にも出ており『戸島川通船図』(甲田町個人蔵)もあるのだが川が余りに小さいだけに、果たしてあの川に船が入ったか?と疑問視する人もいる。戸島川筋の家に昔の船板が保存されているという話を聞いたので訪ねて見せてもらったことがあった。確かに立派な船板であったが長田にも近い所だから、どちらの川の船板かは判別し難い。


 左の写真は高大地の浜である。此処の米蔵・鉄蔵があり、長田の船で三田久保浜まで14キロ程の距離を中継した。(久保浜から広島まではさらに約32キロある)。

 高大地の近くの明神谷という所に船場屋とか浜屋の屋号を持つ家がある。浜屋の方は明治7年生まれの左五郎という人物が船を造っていたという。それが何時まで続いたのか明らかでないが、明治末には荷車引きになっていた。船場屋の方もおそらくは舟運に関わった仕事だったのではと想像させる。向原の公民館をはじめ高大地の旧家数軒で当時の船板を見ることができた。

 近世、文政頃には長田村と井原村に併せて30艘あった船は明治後半荷車に代わるが、三田〜深川の間は大正4年の芸備鉄道敷設までは続いていた。
 
(幸田光温) 
 
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