写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(57)芸北の中門造


 寒冷地では冬期間に家の北西側に葦や苧殻などを編んだ外壁を建てていた。出入りの際に寒風や吹雪が直接家に吹き込まない緩衝地帯を作るためで、冬囲いと呼んだ。

 左の写真の家はご覧の通りの中門造りで、母屋の屋根の軒側を落として瓦を葺き、更に板で囲って1メートル程の空間を設け、そこに風呂を作っている。中門造りの冬囲い的改造とでも言うべきか、庇を瓦にしたのは下で火を焚くからで、その部分が広いのは都合のよいこともあるが、逆に家の中は年中暗くなる問題もある。

 中門造り民家の話はこの欄の第30話で紹介したが、芸北の中門造りは大利原と細見の二戸が最後となった(現在は樽床に移築標本となったもののみ)。

 実は、大利原のこの家を訪れて撮影をしてもいいかと頼んだ時、この家の主人は「いいけど・・・」と言った後でちょっと考えて、撮ってもらってもいいけど、「うちの娘が嫁に行くまでは発表しないでくれないか。こんな風呂に入っていた娘と思われたら可哀想だから。」と答えた。高校生だった娘さんも傍らにいて笑っていた。

 筆者の父方の家は元は高田郡の農村で、昭和20年前後は風呂は家を離れた畠の中の展望の良い所にあった。利点は水汲みしないでも背戸の山水を筧で取り入れられる事と、母屋が火災になる心配のない事、眺めの好い事。不利点は女性には開放的でありすぎる事と、冬に寒い事であった。だからこの家の風呂を見た時にはこれも一つの便法だなと思った。そんな話をこの時にしたら、「近頃はこの付近の家ではみんな家の中の土間を改善してきれいな風呂を造り出したので、特に娘がいると可哀想なんで・・」と主人の方は真面目な顔だった。

 あれからもう30年も経って当時の娘さんの次世代の娘さんが育っている年代だから、その時の写真を出させてもらうことにしたのだが・・村の中で中門造りを建てる事が憧れとされた時代。さらに、「サブロク」より「シハチ」が渇望された時代。などは既に過去のものとなって、密室・集合の住宅が望まれる時代へと移行して来た。
 
(幸田光温) 
 
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