写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(55)戦中荷車繁盛期


 これは広島県全域の事で特に太田川流域だけの出来事ではないのだが、まず上のは中国新聞昭和20年7月25日の紙面である。甚だ読み難いがこの時期の新聞は印刷も悪く紙面も表裏二面しかない。終戦の3週間前である。

 この記事の内容を略記すると、本土戦場化に備え今年中に県内で荷車を1万1千台製造することとなった。国土が分断され貨物自動車や牛馬車が軍用にされると、国内の物資輸送は人力の荷車による他はないからである。そこで軍及び県の当局では先ず県内の業者に7月中に1千台を製造するように通達を出した。しかしそれ以上の能力は彼等にはないので、あと1万台は県内の造船工場に割り当て今年内に製造させる。資材は呉の爆撃を受けて罹災した金属を活用させる。

 というものである。この指令が出た2週間後には原爆が落ち、さらに終戦となってこの計画は消滅したわけなのだが、この記事を見た時に驚いたことが二、三ある。この記事の同じ紙面にはアメリカ軍のグラマン戦闘機の写真やまたアメリカ空軍が優れた飛行服を用いているという記事があり、「いかにも我が身大事の米人向き考案」であると書いている。

 それに比して、本土決戦向けの荷車生産では主要には「造船所」で「呉で爆撃を受け使えなくなった金属」で荷車を量産させるというのである。筆者は以前に車大工から聞き取り調査をした時、仕事が一番忙しかった時代は昭和20〜23年の間だったと言った人がいたのを思い出した。荷車の最盛期は明治後半から大正年代までだろうと思っていたから、その証言は信じ難かったのだが、この時の軍と県の通達はごく一時的にも業者に渡り、戦後は戦後で自動車が広く使われるまでの数年間は荷車の需要が大きかったのだろう。

 広島に原爆が投下された時、川内村温井集落では191人の人が爆心地そばの中島新町に建物疎開に出ており、全員が被爆死した。この時多くの家族は荷車を牽いて帰らぬ肉親を捜して廻った(神田三亀男編『原爆に夫を奪われて』より)。荷車は戦争の幕を引く仕事もしたようだ。
 
(幸田光温) 
 
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