写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(54)肥車の時代


 以前にこのシリーズで太田川の肥船のことを書いた。町屋の人糞を汲み取って運び畑作の肥料にする近郊農村の船のことである。肥船は昭和初年になくなり、それに代わったのが荷車運送、つまり肥車である。勿論船と車が並行していた時期もある。積載量は船がずっと多いが、コガに移し替えたり、船を引き揚げたりする労働はつらいので荷車に代わり、牛に引かせる人もいた。肥車の中には特異な形をした「大砲車」と呼ぶものも現れたが、これは主に佐伯郡方面で用いられたもので、広島近郊ではふつうの中七車やリヤカーなどであったようだ。

 筆者は昭和31年から3年ほど祇園に住んでいた。現在の横川−古市−緑井に繋がる国道54号ができる前で、車はすべて現在言うところの「旧道」を通っていた。毎朝7時前後の通勤ラッシュ時間帯、今なら広島を目指す自家用車、バスで渋滞している道路は逆に広島から戻って来る肥車で渋滞していた。古市橋の駅前辺りまでは肥車がずっと繋がっていて、あとはそれぞれの地区に分かれて帰って行く。その列の間をバスなどが遠慮がちに通って行くといった風景が展開していた。こうした風景は若い方には想像し難いかも知れない。筆者はその間を縫って自転車で通勤していたのだが、臭いが気になったという記憶はない。

 肥車は未明に出て行き、広島のお得意先で汲み取り、帰って自分の所の野壺に移して充分時間をおいて熟してから作物に適した割合に水で薄めて畠に撒く。明治・大正時代は米や野菜を家主に持って行って汲ませてもらっていたが、後には反対に賃を貰って汲むようになっていた。東野・川内辺りの野菜の畠の中には野壺が多い。

 これは余談だが、うっかりして野壺に落ち込む悲劇が時々起きていた。戦時中、軍隊から配属将校というのが各学校に派遣されて教練をやっていた。市内の某中学校でこの配属将校が川内の畠の中に生徒の一団を連れ出して寒風積雪に耐える訓練をした。兵隊ゴッコである。将校は軍刀を抜き突撃の叫びをあげ生徒の戦闘で走りだしたとたんに野壺に飛び込んだ。周りの生徒達は笑いを堪えるのに必死の様子だったと・・、当時の住民の話である。
 
(幸田光温) 
 
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