写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(53)澄合浜の変貌


 澄合は穴村から安野村へ、さらに加計町から安芸太田町へと変わったが、町村名だけでなく風景も前回の後山以上に変わっている。

 上の写真は大正7年山県郡写真帳の澄合浜。下は現在である。

 下の方から説明しよう。川は左側が川上。橋は西宗川の合流する位置に架かるもので、もうひとつ左にある小さいのは三谷川である。遠くの高い位置に中国自動車道も見えている。完全に護岸の固められた道路をこの画面に右に下って行くと船場トンネルに入る。この写真の右の端を含めてさらに数十メートル下までが上の写真の位置に当たる。西宗川の合流地点、つまりこの橋の根肩には元は小さな丘があって森になっており、丘の上にお宮が建っていた。幽奈の森と呼ばれており、その森の延長が上の写真の木立である。

 上の写真、船が三艘見える。この船は貨物輸送の大船である。砂浜があって林の中の建物の右側に割木が大量に積んである。澄合浜と呼ぶのは貨物を積む場所ということで、ここで船に積んだ割木を広島に運んで商いをした。澄合の船の他に津都見や船場や来見の船もここを基地として安野組と呼んでいた。安野組は加計の船とは違って問屋の荷物を運ぶのでなく、船乗りが自分で生産者から製品を買い集めて広島へ運んで市へかける商人でもある。
写真が小さくて見えにくいのだが買い集めた割木を積み上げて、めいめい自分の名前を書いた札を立てている。かつて船場の船乗りだった井原儀一さんから聞いた話。「自分が船に乗っていた25年間、ここに積んでいた割木が一束もなくなっていたことはなかった」と。

 また、加計方面から来る船にとってこの浜は一息つく場所であった。ヤマガケの難所を通過し、ここでノリオクリと呼ぶ補助員を下ろす。勿論この先にも難所はあるが、加計の船乗りには半分は下った気持ちになる場所であったようだ。

 それはともかく、この上下の風景の差はどうであろう。護岸が固くて、車でぶっ飛ばすのも平坦なのが良いかもしれないが、神社や林を小山ごと削ったバチがドーンと落ちてくるかもよ・・
(幸田光温) 
 
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