写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(52)後山の変貌


 1971年に安佐動物公園が開設され、その5年後にはあさひが丘団地が造成され、後山一帯は大きく様変わりした。現在の動物公園のある所は峠であった。山越え道の頂上を峠というが、ここは集落の名も峠だった。だから古い地図には「峠垰」(とうげたお)と書いてある。国土地理院は峠の住民を無視したのかあるいは峠が重なった地名は変だからか「萩原垰」という地名の地図を作っているが元峠にいた人は勿論、萩原の人達も萩原峠とは言っていない。

 大字後山小字峠は明治から大正にかけて12軒の小集落だったが動物公園が出来る前頃には4軒になっていた。このうち頂上にあった井出本家は動物公園のすぐ下に移動して今もある。当時は頂上付近に4軒が並んで、力石家と松尾家とが雑貨店、栄家が宿をやっていた。広島から加計方面に行くには必ず通るメインストリートであった。広島へ出るのは荷船に便乗しても帰りは歩かねばならない。川沿いの道は遠回りになるから山坂はあっても近道を選んだ。明治39年、鈴木三重吉が加計に行くときに通ったのもあの『山彦』の最初の描写から見てこの道と推察される。

 樋口ヨシノさん(明治41生まれ)は栄家から出た人。そのヨシノさんによれば栄宿は木賃宿の看板をあげていたが、木挽き職人とか地元の小学校の独身の教師などが長期間泊まっていたという。加計の方へ行く商人や筏乗り等は古市から安まで行って泊まるか、もう少し伸ばして間野平で泊まるのが普通だったようだ。この峠を越えて、更にもう一つ「ちきり垰」をこえて太田川に出る。この「ちきり垰」は今の日浦小学校の上あたりで、土井二蔵さんの店が皆に親しまれていた。筏乗りはたいてい二蔵さんの所で一杯引っかけて帰るのを楽しみにしていたという。

 メインストリートはこの後山を越してから太田川右岸を間野平、野冠と歩き瀬谷から再び山越え、中倉道を経て津伏、坪野へと抜ける。城下を早朝出発しても坪野辺りで日暮れるので三重吉も心細い思いで加計に着いたことだろう。

 上の写真は後山を俯瞰したものだが、動物公園や大団地への変貌がとても想像できない。
(幸田光温) 
 
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