写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
太田川と麻産業

◆三年前、本誌17号の「写真・絵で蘇る太田川」の頁でかつて麻産業を支えていた古市の女性たちのことを書いた事があるが、もう少し太田川と麻のことを振り返ってみたい。まず原料の荒苧(アラソ)が古市に到着する前の事。これも以前、本誌25号「読者のページ」に会員の桂たえさんが『坪野の思い出』という少女期のことを書いておられた。あの桂さんのお祖父様、久賀恵造さんが書かれた『坪野昔がたり』(1964年刊)の中に坪野での麻作りがあるので一部要点だけ抜き書きしてみよう。
 

一、耕作地域での仕事


・・農地は水田は僅かで一年分の食料産米は無い。耕地の大方は畑で、大麻を耕作した。陰暦2月1日をを公休日とし、翌日から畑を打ち、鰯、鰊をつぶした魚肥を入れ種を蒔く。芽が出て五、六寸伸びた時に中耕除草、厩肥を入れる。麻の成長は一日一寸以上で、陰暦五月は五尺も六尺にもなり畑中の道はトンネルのごとくなり隣の家も見えなくなる。麻は一丈(3メートル)位まで葉の付き方が対生でその後互生になり枝が出始める。その頃夏の土用に入り、収穫期となる。抜き取った麻はすぐに蒸して水に浸し皮を剥ぐ。そして乾かし、夜を日に次いでの大農繁期である。苧蒸釜は一度火を入れたら休ませない。毎晩夜通し麻が蒸される。一軒では堪えられないから二、三軒が連合で行う。釜の上に置いて蒸す桶には釣鐘型と箱型の二様式があった。収穫が済むと釜解きして、胡瓜なますで一杯傾ける苧休みという公休日があった・・ 
 この文では久賀家の麻畑は二畝(60坪)だったようである。なお、ここには書いてないが、麻の種を蒔いてから芽が少し伸びるまでの面倒な仕事に鳥追いがある。紐を引っ張ると音が出る装置を作っておいて子供が番をさせられるというのが普通であった。また麻を蒸す方法にはここにいわれている釣鐘型の桶蒸しと箱蒸しの他に釜を用いないで、地面を掘って麻を入れ、一方で沢山の石を焼いてよく焼けた時に全体に土を被せ、数か所に穴を開けて水をかけ、焼け石が発する蒸気で蒸す方法もあった。石蒸しと呼ぶ方法で、手間がかかるので箱蒸しに代えたけれど一度に大量、しかも全体むらなく蒸される長所があるため、また石蒸しに切り替えた地域もあった。
 ともかく麻を蒸して皮を剥いで乾燥させて束ねたのが荒苧(アラソ)で、それを仲買が買い集めて船や車で運ぶのである。


二、仲買人の仕事

 全部アラソで出さないで少し置いて、農事が暇になってから自宅でアラソを煮て流水で扱いて扱苧(コギソ)にし、さらにそれを績苧(ウミソ)にして売る農家もあった。ウミソの収入は農家の女性の着物や化粧品になっていたのでその時期も仲買の仕事があった。
 仲買人は古市の人ばかりでなく麻作りの村にもいた。先の坪野では林谷家が明治以前から三代続く仲買であった。坪野だけでなく戸河内や水内方面も歩いて得意先を作った。アラソの取引先は古市の福永店や佐々木店という問屋だが直接そこへ搬入するのではない。船乗りに運賃を出して高瀬の斎という仲介業の倉庫に入れる。その製品は後日、古市の問屋が古市の船に依頼して問屋や煮扱屋(ニコギヤ)へ運ぶ。この船は高瀬から本流を下り、古川を遡って運ぶのである。斎店は昭和10年代に廃業した。それは運搬が車の時代に移行したことによる。

 麻の仲買殺人事件

 明治43年1月17日の芸備日日新聞は36歳の麻の仲買人が殺されて現金を奪われた事件を報じた。被害者は日浦村後山の男。昨年末にコギソ買いに筒賀に行くといって二百余円持って家を出たまま帰ってこないので年が明けて日浦村民総出で捜索の結果、筒賀村の井仁の峠の谷底で死体を発見したというものである。この殺人事件はその後20日の記事では筒賀村の二人の男が先月24日の夕刻、峠道で仲買人を杭と手斧で撲殺し130円を奪って谷に蹴落としたとなっている。以後も3月と6月にこの事件は報道され、金額が増え容疑者も6人となっている。結局あまり判然としない所はあるのだが当時としてはショッキングな事件であった。仕事の上でかなりの現金を持って山道などを歩くことの多い仲買人たちにとっては特にショックが大きかったと思われる。
 

三、煮扱屋とオコギサン

 荒苧を大釜で煮てそれを川まで運び、流水の中で長い箸に挟んで扱き、竿に架けて干す。乾いたら半分に折晒し場に広げて水を数回かけて皺を延ばしまた乾かしてコギソの出来上がりだが、上製品はアゲナワシと呼ぶ仕上げを行った。麻の古市ち言われた時代にはこの仕事をするニコギ屋が古市の中に50軒もあった。釜で煮て、それを川原へ運ぶまでがオトコシの役目で、それを流れの中で箸で扱くのがトコギサンの役目。小さいニコギ屋はオトコシ一人、オコギサン4〜5人だが、中にはオコギサンを20人くらい雇っている所もあったようだ。
 写真は古川でのオコギ風景。夏はかんかん照りの下で、冬は冷たい水中で腰を屈めての酷しい労働だった。これは冬の情景で、それぞれの背後に立てた莚は北からの寒風を遮るためである。足にはゴム長を履いたが、それ以前は木靴に藁を入れていた。オコギサンの一日の労働時間はその日によって違う。荒苧の量が同じでもその産地と品質の差によって良い物は丁寧に時間をかけるが質の悪い苧は丁寧に扱くと目減りが大きく儲けにならない。簡単に扱くので品質も低い。五段階でコギソの評価をした。最上級はヤシュウと呼ぶ栃木産の麻で特別な評価を受けていた。これに対して流域産は、下流域の麻はジソ、上流、中流域の麻はオクソと呼んで、地区により品質の高低の差が大きかった。ここに上げた写真では左が上流域で、実際にはまだ上か下に幾筋かオコギサンの並びがあったはずだが、ここだけで言えば左側のオコギサンの方が上級者である。それは品質の良い荒苧の方を水のきれいな場所で、技術も巧い方に扱がせていたからで、ヤシュウは常に川上であり、それを扱くオコギサンは誇りを持っていた。オコギサンは年齢にこだわらない能率給だから、小学校を出てやり始めても数年で大人の給与を越す娘もいた。
 

四、ウミコサンと糸屋


 コギソは問屋に収められ、県外に売られるものもあるが古市で加工されるものもある。コギソから細い繊維を抜き出しウミソにする。ニコギ屋がオコギサンを雇ったように麻糸屋も古市や周辺の女性を雇っていた。苧を績む(オをウム)ということから彼女たちをウミコサンと呼んでいた。オコギの仕事は雨の日は休業だがウミソの仕事は家の中でいつでもできる。写真はもう18年前の撮影だが古市の麻で一生を過ごした堀尾ミツさんにウムところを再現してもらった時のものである。コギソを軽くもみほぐして細く割り、つないでは桶の中に輪になるように入れてゆきいっぱいになると取り出して中央部を巻いておく。
 糸屋ではウミソを2〜3本合わせて一定の太さのホソとし、それを撚って糸にする。当然ながら使用目的で太さが各種、それに応じて撚りかたも違う。各地の漁業用の網や釣り糸の注文が多かった。右撚りか左撚りかもある。
 

五、副産物

 麻には捨てる部分は無い。アラソになる前の葉は肥料となり茎はオガラとして屋根葺きに使われ、或いは火付けにも使われた。次のオコギの段階でアラソの目方は半減するが、その扱ぎ落とされたものは川に流してしまうのではなくて川下に向いたオコギサンの前に5〜6本の竹の杭が三列打ちこんであり、扱き落とされたクズが引っ掛かるようになっている。その中でナデと呼ぶ物は繊維が多く、建築の際に土壁に塗り込むスサにされた。スサ屋という業者が買いに来た。他にゴボウと呼ぶものも掛かる。これはオコギサンが持ち帰って夜なべ仕事に縄にした。スサはニコギ屋の儲けだが、縄はオコギサンの余分の収入となった。


六、麻の凋落

 ラミーと呼ぶ外来繊維の導入。化学繊維の進出によって急速に落ち込んだ麻産業は最後に麻薬に関わる大麻の栽培禁止条例で息絶えた。かつての古市との交流を確かめる追跡調査をしたことがあるが、熊野の筆づくりをしている家では筆の元を括るのに昭和40年頃からラミーを使うようになったが、うちではウミソを今も使っており、違いが分かる人が求めに来るのだがもうあと何年分も蓄えが無くなって来たと心配していた。
 大朝の地名は大麻から出たという説もあるが、その大朝から県境を越えた島根県出羽川筋の鱒淵付近ではニコギをする女性は小川に屋根つきの小屋を造り、タライに入って扱くという古市のオコギサンに比べてのんびり優雅な仕事だったようだ。オトコシの方はそのコギソを荷車に積んで古市まで日帰りで運んだ。夜行便だった。他にも古市とつながった生産地はある。乙原は江の川下流の村で、平常は船で江津から萩へ出すコギソを、注文を受けて古市へも運んだという記録があった。
(幸田光温) 
 
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