写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(51)温泉の話

 
 安芸の国は熱い湯の吹き出る温泉がない。しかし、手を浸けてみると(冬には)やや温かみを感じる程の所は時代によっていくつかあって湯治場が出来ており、そこの湯に浸かって病が快癒したという効能が吹聴されていた。中でも水内川筋の旧和田村と旧多田村の二つは有名で今に存続している。
 和田村の方は「湯ノ山明神」を祀り、湧水が滝となって落ちる景観もあって霊泉と呼ばれた。1749年、当時の広島藩の儒学者堀正脩は藩主浅野吉長の命を受けて訪れ、調査の記録を残している。その中に「この泉は天下の美泉なり。大旱に枯れず、大水に溢れずその性は僅かに温かく、味は微かに甘く・・一般の温泉は浴びて良いが飲めないものだが此処の湯は飲んでも良い」という意味のことを書いており、またその年には入湯に赴く家中の者へ、道中で百姓に対しては法外なことなどせぬよう。湯所で無作法せぬよう。といった「達し」が出されている。家中の士どもも盛んに湯治に出掛けたのだろう。吉長が行ったのはその2年後であった。しかし残念ながら彼には湯治の効果がなく、それとも薬が効きすぎたのか?翌年亡くなっている。
 近世の湯ノ山温泉前景を描いた絵として知られているのは岡岷山が1797年に描いたもの。中川義喬が1820年頃に描いた「芸藩通史」の中の絵。昴斎という人物が1832年に地元の温泉旅館に頼まれて?描いたものなどがある。初めの2つに画き手は共に藩の画家であり、描いた年代も近く、描かれた建物の配置がよく似ている。絵の一番上の建物が湯ノ山明神。その下が拝殿。その下が3つの浴槽のある湯殿で、そこから溢れた湯が三段の滝となって落ちている。画面中央の三階建は岩田屋旅館。岡岷山の絵の方には新屋、山代屋、満足屋、草津屋と周囲の旅館名も書き込まれている。
 この頃、もう一つの多田村温泉の方は田んぼに湯を溜めたような露天風呂で、打尾谷川が水内川に合流する川岸にあり、湯の温度は湯ノ山よりやや高く、冬には少し湯気が上がるのが見えた。これが現在の「湯来温泉」である。この「湯来」の字は町村合併以後のことで、それまでは「多田村温泉」と呼び、字も「湯木」と書いていた(現代の資料では湧泉の温度は「湯ノ山」が摂氏24度に対して「湯来」は28度という)。
 温泉のこととしては広島藩の出来事を綴った『事蹟緒鑑』の寛政八年(1796)の所に「当春より山県郡本地村温泉、人集まり繁盛、此の節人多く凡そ千人ばかり、殊の外賑わしき由」との記録がある。どれ程の温度だったのか分からない。本地は可部峠を越えた北側で太田川水系ではないが、岡岷山は翌年に都志見まで旅して水内川の二か所のほか、筒賀や久地の冷泉も回っているのだから、本地温泉も描いておいてくれたら・・と残念。
(幸田光温) 
(参考)第55号みずべのぶんかざい 湯ノ山温泉旧湯治場
 
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