写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(4)ガソリン中毒


 交通運輸の近代化はまず県道の整備から始まる。太田川上流筋では明治20年代の終わり、九尺道がついて荷車の出現となる。その後、二輪馬車、続いて四輪馬車の活躍の時代になる。宇佐(現在湯木町)で飲食店をやっていた明治40年生まれの主人の記憶では、大正初年ごろはまだ荷車や二輪馬車だけでなく、馬の背に米俵を2俵振り分けにして運ぶ人達もいたと言う。当時のドライブ・インでは人の飯や酒の他に馬の飼料も準備されていた。

 
 昭和4〜5年からこの地方でも貨物自動車を使う人が出てきた。出口で運送を始めた上原熊一氏が最初に手に入れた車はフォードの1トン積みで、4輪ともソリットタイヤ(ノーパン)であった。チューブのないタイヤだからパンクすることはないが、大変な振動で走った。運転手も助手も雇い人だった。当時の自動車ではエンジンの始動の際、スターチングと呼ぶレバーを助手が手で廻して掛けるのだが、反動があって危険なものだった。この助手もスターチングに失敗して腕を折ってやめてしまった。熊一氏の2台目の車はシボレーの2トン積みで当時の花形だったから早速親戚や近所の人が集まって、牛まで並べて記念写真を撮った。この頃になって熊一氏の息子たちも免許をとって運転できるようになった。
 


 写真は3台目で、やっと国産車が出回るようになったのでトヨタの2トン積みを購入した。3人の人物は右端が熊一氏、左端は息子で運転手の守君、中央は雇いの助手である。昭和十年代から廿年代にかけての若い運転手の服装はみんなこうした詰め襟服に帽子で、この帽子をほんの少しだけ斜めに被る。トラックもバスもこれが運転手の誇りあるスタイルだった。彼らは運転技術の優劣に関らず村の娘の熱い視線を浴びた。中でも特にぞっこんに惚れこんだ娘は、廻りの者から陰でこんなことを言われたものである。

 「あの子、ガソリン中毒にかかっとるんじゃげな・・」

 ガソリン中毒の娘が各地にいたのは昭和廿年代までであったろうか・・・ 
(幸田光温) 
 
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