写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(3)八木用水


 「八木用水」と今日一般に呼ばれている16キロばかりの農業用水路は1768年、現在の安佐南区を北から南に貫き、周辺農地の旱害を解消する画期的な土木工事として完成した。この用水路の掘削は18世紀に入って何人もの人がいろいろ試みたがすべて失敗に終わっていた。最後に祇園の大工であった卯之助によって成功するのである。そして以後300年以上にわたって周辺農民に恩恵を与え続けてきた。

 
 ところで、このような農業用水路掘削の話は全国各地にあるのだが、多くの場合、掘削の主人公は水利に悩む農民の中から一大決心をしたものが現れ、長年の度重なる失敗に次第に協力者も失い、為政者からは狂人扱いされ、失望や苦難を乗り越えて最後に成功を収めるという、いわゆる浪花節的物語が普通である。土師(可愛川)の矢櫃井手掘削の喉声忠左衛門はこのての代表格で、良民を惑わす不届き者として首かせをされてもなお一人で掘り続け、声が出なくなりながら初志貫徹する。その悲劇的人生が死後、人々に我らの英雄としてもてはやされるのだ。
 それに対し、卯之助は農民でなく藩の御用に預かる大工棟梁、つまりいくらかの特権を持った人間と見られていたこと。さらに彼は実際には事前に相当な調査をしていたではあろうが、工事に着手して僅か25日という短期間で完成水を流した。(彼の卓越した技能が逆に周囲の者からはあまり苦労してないように見えた?)さらにまた、卯之助を監督した代官(上の絵で刀を置いて床棋に座っいる男)の沖団五郎にいたっては水路が完成し初めて水が流れてきたのを見た時に熱狂し、水の中に飛び込んで、卯之助よくやった!と叫び、その泥水を手で掬って飲んだというのである。
 官民共同というのは良いことのはずだが、この起承転結には悲劇的要素がどこにもない。為に過去長い間卯之助氏が分賞賛を受けずにきたのは気の毒である。

 絵は『芸備孝義伝拾遺』より。場所は取水口の八木十歩一。松の木の傍で扇子を持っているのは割庄屋嘉兵衛。尺杖を持って話しているのが卯之助か?
(幸田光温) 
 
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