写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(2)鵜飼い(松落葉集)よリ


 「松落葉集」は山県郡加計の隅屋、十五代目の主人八右衛門が編集した詩画集である。隅屋はこの地方の鉄山主で大坂との取り引きがあったので、原稿は大坂に送って版刻させていたが、その最中に八右衛門が亡くなり、その後十六代目が跡を継いで発刊した。明和五年(1772)のことである。

 この内容は画家に太田川上流の五十三ケ所の景勝を描かせ、それぞれの風景を詠んだ詩を配している。詩は漢詩、和歌、狂歌、発句等いろいろで、その作者は山県郡内にととまらず郡外にも及び、層も武士、僧侶、地主、一般人と様々である。知名の文人ではない、画家も絵を見てわかるように全く無名の画家である。ただ風流を好んで集まる人たちが18世紀のこの時代に、この地方にいて、この作品集が残されたことは注目に値すると言えよう。


 五十三ケ所と言った。殆どは山の名、滝の名、村の名などが特定されているのだが、一部に「筏流し」とか、この「鵜飼」のように状況が題名となっているものがある。この絵では相堅、亮香という雅号の二人の和歌、

  明ぬるかうぶねにともす
   篝火のかげしらみ行く
   夏の夜の雲
  くらき夜をまちえでいづる
   鵜飼船せせのしるべや
   かがりなるらん

 と鵜飼いの様子が歌われている両方とも船上での鵜遣いである。ところが絵の方は、(小さくてわかりにくいのだが)船はなくて川の中で鵜を遣う徒手遣いである。これはおそらく、画家は鵜飼いを描くよう頼まれて、見たのが徒手遣いであり、歌人は船遣いを見て詠んだのであって、当時両方があったことを意味していると思われる。全国的に鵜遣い漁の歴史は古く万葉集などにも登場するが、多くは徒手であった。



 太田川の鵜遣い漁がなくなったのは明治43 年、県令第五十三号県漁等取締規則の改正(第十五条鵜使漁ノ禁止)によってで、以後県内では一部特定の川の特定の範囲を除いて禁止された。それまでの太田川では上流の戸河内から下流の河戸まで鵜を飼っていた人達がいたのである。
(幸田光温) 
 
当ホームページ上の情報・画像等を許可なく複製、転用、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。