写真・絵画で甦る太田川

写真・絵画で甦る太田川 
(1)二百年前の渡し舟


【空鞘前の川風景】

 十九世紀始め頃、広島、町川(楠町より川しも) には十か所の渡し場があった。

 最も古く創設された渡しは空鞘神社前の今門渡しで、『新修広島市史』によれば一六二三年とされている。

 左の絵の右上の絵はその『新修広島市史』にある絵で、佐々木駿景画の『江山一覧図』の一部である。

 小さくてはっきりしないが、五人の客と、後尾で櫓と思われるものを持っている船頭が描かれている。
 船に乗るためには、川端の道から石段を十数段下りてくるようになっていることが分かる。これは絵巻なので、もう少し川上の、楠木運上場渡しも描かれている。
 
【白島の渡し 船頭は與吉】
 
 上の絵の左下の絵は白島、一本木の渡しで浅野藩の絵師、山野峻峰斎が描いたとされている。
 この渡しの創設は一七九〇年、藤田屋平次郎とされている。創設者といえば富裕な商人のように思えるが実際は小さな商いの一方で渡し守で僅かな稼ぎをしていた町人で『芸備孝義伝・第三編』にこの絵が描かれた一八四三年には、すでに平次郎は病死し、その使用人であった与吉という男が渡し守をしていた。

 この渡し場の位置は今の京橋川の工兵橋辺り、安田女子高校側から牛田側を見た方向であろう。
 船の客は、僧侶、舷に腰掛けて煙草を吸う男、菅笠を被り荷物を背負う男、船梁に腰かけている女、しゃがんで水に手を入れている子ども、対岸を眺めている男の六人で、後尾に櫂を持った船頭の与吉が描かれている。
 この操船具は櫓ではなく支点を持たないパドルのように見える。

 写真と違って絵の場合は画家がどれだけその対象物に精通していて、写実したかどうかが問題になるが、この通りの船であれば、一枚棚の平田船であることになり、駿景の描いた舟とは形も操船具も違っていたことになる。
 
(幸田光温) 
 
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