万葉の鮎釣り

元禄の友釣り

針は四〜五本 先進的な久慈川

広島県条例に見る川漁法

ボッシャン!と 投げて掛ける

徒弟制度の漁師中木さんの談話から


今年の鮎は…

川の漁業史(壱巻)元祖友釣りナノダ!2001年 6月 若鮎号

 万葉の鮎釣り

 アユを対象とした漁業は古くから記録されているか、その漁法が具体的に記されている古代、中世の史料は発見されていない。例えば8世紀後半に編集された万葉集には、九州の松浦川でアユ漁をする女性漁師を詠んだ歌か見える。作者不明だか大伴旅人ではないかと推定されている数首の歌で、前書きがある。要約すれば「松浦川に釆てみれば数人の釣りをする娘たちがいる。輝くような花の容姿である。君達どこの人?どういう名前?と尋ねると、私たちはこの近くの貧しい漁師の娘です。名乗るほとの者ではありませんと答えた。」そこで

松浦河河の瀬光り あゆ釣ると立たせる妹が 裳の裾ぬれぬと

詠むのである。
 大伴旅人といえば酒好きで、いつも酔っ払っている歌人かと思っていたが、なかなかプレイボーイじゃん。とも思えるし、また当時紅いスカートをユニフォームにした若い女性の漁師集団がいたことにも興味をひかれる。
 しかし残念なのは、この時旅人が川に入っていって、「ちょっとその糸、どんな仕掛けが付いてるの?見せてよ。僕にも釣れるかしら……とやっていたら、彼は日本漁業史の一ページにその名を残すことになっていたであろうに……惜しいことをしたものである。
 アユという餌では釣れない魚であるだけに、昔の人がどのような方法で獲ったのかは殊更に興味をひくのだが、万葉の漁法はおそらくは素掛け、つまりボッシャンであった可能性が高い、ボッシャンだってなかなか斬新な方法ではある。

 
 元禄の友釣り

 さて、期待の「友釣り」が最初に記録に登場するのは近世になって、1697年(元禄十年)に書かれた人見必大の「本朝食鑑」である。人見という人は実に博識で食べるもの−−穀類、野菜、獣魚などあらゆる食材について、種類や作り方、獲り方、料理法などを網羅した百科事典というべき著述を残した。それが「本朝食鑑」でその魚部の中にアユの漁法がいくつか出ている。
 「洛の八瀬の里人は長い馬尾におとりの鮎をしっかりと結んでおいて谷水に投げ入れ、岸の草の間に立って、近づいてきた鮎をひっかけて釣る。妙手なら一日に五、六十匹も獲る。」 と書いている。糸に馬の尾毛を用いているわけだが、明らかに友釣りのルーツと言えよう。

 

図は加藤寛斎の描いた幕末ころの友釣りの仕掛け。
本邦最初の図解説明と言える。
針は四〜五本 先進的な久慈川

 幕末の水戸藩に加藤寛斎という郡奉行の役人がいて、植林や用水の管理をしたり、果樹の育て方を指導したりしていた。その寛斎が晩年書いた随筆の中に久慈川(今の茨城県)における鮎の「おとり釣り」が挿絵付きで出ている。

 「川々にて鮎を釣るに、をとり釣りと言う事を工夫して、生きたる鮎を一つ鼻に釣り針をさして針の側に泳がせ、針は四つ五つをたれて水中に投げ入れて、棹を持って魚の掛かるを待ち、魚友を慕い群れ来たりて針に擦りて遊ぶ時、針掛かる也。」

 これは確かに友釣りであるが、図を見ると現代の仕掛けとは大変に違いがある。こんなんで掛かるかと言う人がいるかも知れない。しかし、魚の習性は長い年月や環境で変わることもあろうから、これで結構釣れたかも知れない。それよりも気になるのは、
「……魚、友を慕い群れ来たりて針に擦りて遊ぶ……」
 という部分である。昔も今もそういう観察をしている人がいたから「友釣り」の名で呼ばれているのであろうか。アユの立場になれば友を慕って来て遊ぶのではなく縄張りに侵入するオトリを攻撃してぶつかって来るのだから、本当は「友釣り」という表現では適当でない。「仇約り」とでも言うべきかも知れない。

 それはともかく、太田川においてはいつから「友釣り」が始まったのか……それを物語る史料は発見できない。公文書によれば、少なくとも昭和初年までは友釣りは存在しない。
 

 広島県条例に見る川漁法


 例えば、明治39年には、 「鮎掛釣・年額90銭」の課税額が示されているが、これはボッシャンのことである。翌40年に「釣漁・六十銭」と課税されている。この「釣漁」はボッシャンと友釣りがいっしょにされているのかどうか、判断しようがない。ようするに「友釣り」という言葉が出てこないのである。

 昭和12年における川漁に対する課税項目をあげれば、

 1、簗
 2、鮎瀬張網(切川を含む)
 3、漁堰
 4、堰筌
 5、鮎建網
 6、鵜縄使用投網
 7、鮎釣

の7項目に分類されている、7は竿釣りということで、ボッシャンと友釣りとを含むことなのであろう。とにかく、公文書としては鮎釣り(竿釣リ)はボッシャン、その他。という見方がされていて友釣りはほとんと問題にされていなかったことになる。

 












現在の友釣りの仕掛け各種一般にはハナカンを付け、逆針を尻ビレに付けるのが普通のようだが、他もある

「ものと人間の文化史 鮎」 1986 法政大学出版局より

 ボッシャン!と 投げて掛ける

 ここでちょっと余談になるが、あまり川釣りを知らない人のためにボッシャンのことも説明しておく。コロガシとも言う。全国的な通名は「素掛け」であろう。かなり大きな鉛のおもりをつけ、その先に対称に14〜15組のかえしの無い鉤をつける。これを川底でころがして泳いでいる鮎を引っかけるのである。広い川の中をむやみにそんなの転がして魚が引っかかるのか?と不思議に思われようが、それが意外に掛かるのだから面白い。ボッシャンとはおもりを水中に投げ入れた時の音から付けた呼び名に違いない。多くは夜にやるが、少し水が濁っている日は昼でもよく掛かる。この漁法は明らかに友釣り以前から行われていたと思われる。
 
 徒弟制度の漁師中木さんの談話から

 さてそこで「友釣り」だが、太田川にいつ頃に、どこから入って来たのかは全く不明だが、明治中期にはほぼ定着していて、仕掛けは少し現在と差はあるが、細かい技術は現在よりも高かったようである。筆者は二十五年前に柳瀬の専業漁師に会って聞き取りしたことがあるので、その時のメモを略記しておく。

 中木友一さんは明治24年生まれ、家は農業だったが、十二歳下河戸の専業漁師の所に弟子入りした。十二歳の少年が自分で漁師になることを決意して厳しい内弟子修業の道に入ったというのだが、その動機はこうである。

 「わしが十二の年に(明治35年)その頃大工なんかの日当が30銭くらいでしたかの。河戸の浜での、アユを獲った漁師が仲買に売って、1円20銭もらうのを見たんです……」その情景が中木少年に漁師で立つことを決心させたのだという。

 弟子入りしたといっても始めの半年くらいは師匠の家の家事手伝ばかり。やっと漁に連れて行ってもらうようになっても.教えてくれることはない。見て習えということだと解った。
 「先生も教えてくりゃあしませんけえ。人それぞれの秘密があるんじゃけえ。自分で経験せにゃあ分からんいう事よの……」

 中木少年は利発だった。水眼で魚の動きを徹底的に観察して、独立後ほどなく仲買人たちに注自される漁師になっていった。
 
 オトリのアユをつなぐのに今は金属環のハナカンを使うが、糸をオトリの鼻に通して撚り、ミチ糸に付ける。オトリを自然に泳がせるのは糸がよい。まづ川を見る。どこにどれくらいの大きさの野アユがいるか、その大きさを読んでサキ糸の長さを決定する。いよいよオトリを入れて竿を動かす場合基本的に三通りの方法がある。「オッカケ」「チドリ」「ナガシ」の三通りで、川の様子を見て選択するのである。

 結局は「友釣り」という漁法は魚と人間のかけひきとして他のどの漁法よりも釣り手の技術を発揮して魚に対抗できる、ということか今日、多くの約り人の興味をひいているのであろう。

 
太田川の専業漁師
 中木友一さん
明治24 年(1891)柳瀬に生まれ
85 歳で引退するまで漁をした

 今時の鮎は・・


 しかし残念なことは、天然遡上の鮎がいなくなったこと。水流の勢いがなくなり、餌の水苔が変質したことなどで鮎の生態か変わってしまって、名人の技術も通用しにくい時代となってきた。「昔は水が多かったですけえの今の十倍も二十倍も。今はとろっとして、かめの中の水のように腐っとるけえ、苔がやっぱり腐っとる。それを食べとるけえ……」その結果は鮎は

 1、栄養不足で成長しない。
 2、食べて不味(香りがない)
 3、縄張りに強く執着しない

 この中で3、は漁師にとって最も困ったことと言える。本来、鮎の素晴らしさは何と言ってもその俊敏さであり、闘争心である。ただ量を沢山獲るのが目的だったら、中木さんの時代には「切り川」といった漁法があり「一日に今度は一万尾獲るで、言うてやるんじゃが、どうしても毎回二〜三百きれました」というほどの莫大な漁獲量があった。それでもやはり儲けを度外視してでも「友釣り」にひかれるものがあるのは、鮎との知的な勝負に魅力を感じたからであろう。

 今時の鮎……俊敏さをなくしてややジベタリアン的な風潮さえ見えてきた、とまで憂れうる人もあるようなのだ。

 
 
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