「地域」

〜芸北町誌発刊〜
芸北町半世紀のあゆみ
芸北町誌編纂室長(本誌会員) 下杉 孝さん
2008年 3月 第83号


 平成の市町村合併で約半世紀にわたって、慣れ親しんだ太田川上流の芸北町の名が消えて北広島町になりました。芸北町のこの48年間の歴史をまとめた芸北町誌がこのほど編纂発刊されました。この町誌編纂に携わられた本誌会員、下杉孝さんに芸北町、約半世紀のあゆみを振り返ってお話をうかがいました。


 このたびの平成の合併は国や自治体の台所事情によるものなので、多くの町村にとって必ずしも喜びを感じるものではありませんが、48年前、昭和31年、八幡、雄鹿原、中野、美和の4村合併による芸北町発足時は、将来への期待を抱き、町を上げて喜び新町誕生の祝賀行事も盛大なものでした。約200年前の文政2年の古文書には、旧芸北地区は奥山県と呼ばれ「土地甚だ高く平地少なく五穀熟しがたく百事便ならず、唯農余に炭を焼き鉄を駄送し僅かに生理を助くるのみ」とあり、町発足当時も交通は不便で、積雪期問が長く決して恵まれた地域ではありませんでした。

 県内で2番目の広い面積を持ち、産業振興策として農林業の振興を基に1200haの耕地と1万9000haの山林を活かし営農、営林、畜産に力を注ぎ、営農では水田の基盤整備を実施、大型機械で効率的な稲作りができるようになり、コメ以外でも以前は、キャベツ、現在では、ハウスによるトマト、ホウレンソウの産地としてもよく知られるようになりました。

 営林では町有林、民有林とも積極的に植林を進めてきました。新町発足時の財政規模は県内の類似団体と比べると4倍近い予算を編成していましたが、その歳入の実に3割は町有林の木材販売収入を当てて様々な事業に取り組んでいます。

 おかげて学校統合などによる新校舎の建築、道路整備などインフラ整備も進み、生活道は、ほぼ全世帯が軒下まで車が入るようになりました。近年は医療、福祉、保健も格段に充実しています。観光では最近はかげりが見えますが、西日本屈指のスキー場ができて、1999年(平11)ピーク時には100万人を越える客が訪れています。

 しかし、全てが順風満帆なわけではありません。1963年(昭38)いわゆる3・8豪雪以降、人口減少が続き、1955年(昭30)の7602人が2000年(平12)には2958人と半分以下にまで減少、過疎、高齢化が進み、高齢化率は37%。既に日本の50年先の超高齢社会を歩んでいます。

 林業は、輸入材に押され国産材の価格低迷が続き、折角植林した山林も手入れ不足。農業も担い手不足で、耕作放棄も見られます。最近全国的に集落の崩壊や消滅する集落のことが話題になりますが、芸北では今は集落の崩壊はまぬがれていますが、そういう時がいつ訪れるかという不安は常に付きまとっています。

 芸北町発足当時と比較すると農業でも全て人力に頼る過酷な労働がありましたが、隣近所が互いに助け合い、乗り切ってきました。今は、過酷な労働からは解放されましたが、人々のつながりは希薄になったことはいなめません。

 しかし、町づくりへの住民の意識調査では「豊かな自然との共生の中で住民みんなが安心して生き生き暮らせる健康・福祉のまち」を望ましい姿として描き求めていることがわかりました。現実にはそれぞれの地域で活発に暮らしている人々の姿があります。私は、「芸北町誌」の編纂を通じて、楽観的かもしれませんが、芸北は豊かな自然を含め、明るい未来が開ける地域であり「そう悲観することはない」という思いを強くしています。

 
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