「地域」

安芸太田町戸河内・伝統工芸「那須の漆器」復活へ
 
新宅智也さんの挑戦
2008年9月 第89号


 安芸太田町の役場の先から191号線を太田川本流に沿って約10q、川沿いの道から右手の山道を約3km登った所に戸数四尸の那須地区があります。今、人が住むのは10戸14人、全員が65歳以上のお年寄りの限界集落ですが、江戸末期から昭和にかけては木地師の里で、当時約50戸の住民8割が「挽き物」といわれる椀、盆、鉢の木地、漆塗りの仕事をしていました。これが「那須の漆器」です。戦後はほとんど途絶えてしまいましたが、戸河内生まれで32歳の新宅智也さんがその復活に取り組んでいます。新宅さんの工房を訪ねていろいろお話をうかがいました。       (篠原一郎)
  


 
県伝統的工芸品として指定

 新宅智也さんは加計高校卒業後、家業の大工仕事を継ぐため建築・デザインの専門学校を卒業しました。昔ながらの伝統工法を守り、今は古民家の再生の仕事をしている父の新宅敏さんと共に大工を修業していましたが、6年前から「那須の漆器」の伝統を受け継ぐ最後の職人の増谷芳五郎さんや漆塗りの塗り師、故今本幸市さん(05年旧歳で亡くなる)を知り、この2人の師匠の指導をうけて、漆器復活に取り組んでいます。

 05年には自宅の敷地に自らの工房を開き、椀、盆などの漆器をつくり、去年12月には「戸河内挽物」として広島県の伝統的工芸品の指定を受けています。


 
石州から来た石田富次が指導

 「挽き物」とは轆轤(囗ク囗)を使って木をくりぬいて造る容器のこと。那須の漆器はこれに地元で採取した漆を塗ったもの。那須集落には昔、報恩講の「お斎(トキ)」という会食に使った当時の家の数だけそろった「八重膳」という漆塗りの膳と食器が保存されています。記録によると、明治33年(1900年)石州那賀郡都地村(江津市)から石田富次という人がこの地にきて、漆器に適した橡の木が繁殖しているのを見て、囗ク囗細工と漆塗り師の養成に努めた。ということで、那須地区にはその遺徳を讃えた記念碑(明治41年建立)が建てられています。


 
木地師の歴史

 こうした記録では、那須の漆器の歴史は明治後期に始まったことになりますが、全国の木地師の歴史は古く滋賀県東近江市(永源寺町)が発祥の地で第55代文徳天皇の第1皇子、惟喬親王が木地師元祖とされています。法華経の巻物の紐を引くと軸が回転するのをみて囗ク囗を発明したとのこと。この地から多くの木地師が全国に散ったそうです。全国を移動する木地師は朝廷の保護のもとにある由来書を持ち、どこの山でも7合目以上は自由に木を伐採できる許可書をもち、取締役が奉加金を集めて歩く「氏子狩り」という制度があって全国の木地師はこれに登録することで権限を与えられていたということです。

 新宅さんの話では、江戸時代前期からの全国の木地小屋の所在地が掲載される「氏子狩帳」が残されていて、そこには戸河内の木地師の記録もあるということ。ですから那須の木地師の伝統も明治時代以前からあったのではないかということです。木地師の姓は「小椋」とか「大蔵」姓が多く「小椋」姓は戸河内町、田吹に何軒かあるということです。

 
戸河内の伝統への意欲

 那須の漆器の伝統は、石田富次を初代とすると、木地師としての伝承は増谷さんが5代目、塗り師の今本さんは3代目なので、新宅さんは木地師6代目、塗り師は4代目の伝承者になります。

 新宅さんは2人の師匠の指導を受けながら、全国の漆器造りの現場を見て回っています。いろいろ学ぶ中で、戸河内に伝わる技術が漆器造りの技術としては未熟で、高度なものでないことを感じています。しかし今、漆芸を志すもの皆が、石川県の塗りの輪島や囗ク囗の山中(加賀市)といった全国トップレベルの研修所で、同じ技術を学ぶことに疑問を持っています。「自分としては広島の戸河内に伝わる技術や道具で、トップレベルに対抗できるものを造りたい」と考えているといいます。

 
橡の木を中心に

 新宅さんの作業は月→金曜日の朝時から夕方までは、ロク囗を回して椀などの白木の容器造り、土→日曜は、調査や漆器の研究に当てています。漆を塗るのは天候を考えて、朝か夕方に行うという日課を過ごしています。

 椀などの素材はもともと那須の漆器の伝統を守り、橡の木を中心にサクラ、ケヤキなど地元産材にこだわっています。橡の材は入手が困難ですが、広島県だけでなく島根県など、西中国山地一帯で取れるものを仕入れます。木材市場や山に行って現場で木を見て丸太買いをします。師匠の増谷さんから木を見ることから学びました。これを製材所で、木どりの指示をしてノコをいれます。これをロク囗で削りながら、自然乾燥。木の製品は乾燥が決め手です。機械で乾燥させると2週間で固まりますが、新宅さんは自然乾燥にこだわっています。荒ぐり→中ぐり→仕上げの3工程のなかで、修正しながら1〜2年かけて乾燥→修正を繰り返して完成させます。

 漆を塗るのは椀だけに限っています。戸河内挽き物としては、師匠の増谷さんが開発した白木の「すし鉢」があります。すし鉢は白木だとすし飯の余分な水分を吸い取ることから、重宝がられています。これに中を赤色に、外側を黒く漆を塗ったものが、そばを打つ時につかう漆器の鉢、昔は各家に一つはあったものです。

 
国産漆へのこだわり

 本来漆器とは白木の素材に天然の漆を塗ったものです。現在、市中で売られている漆器にはプラスチックに化学塗料を塗ったものから、中身は木でも化学塗料を塗ったものなど、様々なものがあって、問題はこれらは外から見ても分からないことです。また、天然の漆も今は日本で100tぐらい使われていますが、その99%は中国からの輸入で、国産はわずかに1%、1・3tしか生産されていません。今は岩手県が約800kg、茨城県が約300kg、残りのわずかな量が他の所で生産しているだけなのです。

 値段も、中国産は国産の10分の1〜5分の1、値段の関係で国産の漆は一咋年までは余っていたそうです。しかし、文化庁が日光東照宮の修復を去年から始めたために、これから5年間ぐらいは供給がストップするのではといわれているそうです。

 新宅さんは現在岩手県二戸市浄法寺の漆を個人取引で手に入れていますが、国産の漆が手に入るうちは100%国産漆でやっていきたいと語ります。

 
地元漆の生産への取り組み

 そこで、今新宅さんが取り組んでいるのが、地元での漆の生産です。那須地区にも漆の木はあったのですが、ほとんど切り倒され、わずかに木株が残っている程度。そのヒコバエを取ってきて、苗木に育てたり、岩手や茨城から苗木を購入して育てています。

 漆の木は、十数年で高さ10m、直径が10〜15cmほどに成長します。6月頃に黄色い花が咲き秋には紅葉します。8〜13年程度生育し、成熟してくると、その幹に傷をつけて(掻いて)うるし液が採取できるようになります。

 うるし掻きの方法は2通りあり、一年で樹幹の全体に傷を付け、採りきってしまう「殺掻き(ころしがき)法」と、数年に渡って採り続ける「養生掻き(ようじようがき)法」とがあります。昔は漆の木の実から囗ウソクの原料を採ったので、養生掻きが普通でした。

 現在はほとんど「殺掻き法」だそうです。「殺掻き法」は一年でうるし液を採りきり、その後、萌芽更新のため木を切り倒します。

 漆の木1本あたりの産出量は、8〜13年経た成本(周囲25〜30cm程度)で一年間にわずか200g程です。一つの椀に25g程塗るそうですから、一本の木の漆で8個ぐらいしか使えない計算です。また、漆の木が漆液を採取できるまで育つには8〜13年かかるので、天然の漆液は非常に貴重なものなのです。

 
広島市立大学との協同

 数年前から広島市立大学デザインエ芸科で漆造形を専攻する学生が、大塚智嗣准教授の指導で、新宅さん宅の裏の畑に茨城から12本、購入して植えた漆の木が、高さ3mほどに育っています。年に2〜3回来て草取りなどの世話をしています。

 新宅さん自身も岩手から購入した苗50本と那須からとってきた苗など40本ほどを育てています。将来は5m間隔に、200木ぐらいに増やして、漆の林をつくり、養生掻き法で漆を採集しながら、木を育てて、循環させ、自らの工房をまかなっていけるようにしたいと語ります。

 新宅さんが漆器造りに使う道具は、漆塗りは今木さんから譲り受けたもの、囗クロをまわして木を削る道具は、島根県の安来から取り寄せた特殊な鋼を手作りで作ったもの、いずれも明治時代の石田富次からつたわる伝統の道具です。新宅さんの作品は戸河内ICにある道の駅「未来とごうち」に展示販売されています。
 
 
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