「地域」

入り組んだ村境の謎?(その2)
安芸太田町・加計のあゆみの中で…

郷土史家・西藤義邦さんに聞く
2008年 3月 第83号


 先月号で旧加計町の複雑な村境の原因として、太田川の流路変更による飛地の場合を見てきました。

ここからは、狭隘な山を縫って流れる太田川流域の厳しい地勢に挑み、流域の先人たちは、山の中には棚田を築き、川筋では氾濫地も耕地として開拓してきた姿が浮上しました。

今回は、その開拓地=飛地がいつ頃の時代にどのようにして、生まれたのか?それがどのようにして現在の複雑な村境につながるのか?

 西藤さんに前回に続いてお話をうかがいます。(取材・篠原一郎)
 


 加計町の耕地の開拓がいつ頃の時代に始められたのか?その辺からお話をうかがいたいと思います。

杉の泊の伝説

 古代、中古の太田川筋は、農業より鉱物資源の採掘が盛んだったと思います。弥生時代の遺跡は少ないのですが、遅越地区の古墳からは、鉄の副葬品が特に多く鉄剣10本がでています。「たたら製鉄」がその頃からあったのでしょう。筒賀地区には磁鉄鉱の鉱山跡もあり、何よりも寺尾の銀鉱は太田郷発展の基点だったにちがいありません。

 活発な農業開発が行われ始めたのは中世、鎌倉→室町時代(14〜15世紀)からでしよ

 旧加計町の北部「杉の泊」には次のような伝承が伝えられています。
 「杉の泊は室町前期の応永年間に、香草の人、道照さんによって拓かれた(一帯を今も道照町という)。ところが先に円福寺という禅寺があり、和尚と道照が鯉のことで袈裟斬り地蔵の伝説(水喧嘩伝説)がうまれた」また「旧芸北町雄鹿原から開墾に来た人が巨大杉のうろ(洞穴)に泊まって、雨露をしのいだのでここを杉の泊という」さらに「穴袋は応永24(1417)年に、野田六助という人が津浪から遠望してここに黒い沃地を発見、やって来て拓いた」とこの地の開拓には様々な説が伝承されています。

 このような伝説が曲りなりにも伝えられているのはここだけです。もっとも旧加計町は「来住伝説」が多く聞かれる所で、平家落人伝説以下それは実に多彩で学者もあきれるくらいです。

 ついでながら、山県郡一帯は厳島神社の所領だったといい、太田を支配した紀伊から来住の栗栖氏は神領衆でその現地管理人だったといわれています。

たたら跡の開拓〜棚田

 この地でさかんだった「だたら製鉄」の鉄山師にも有為転変があり、それに関って働いていた人々が砂鉄採取(かんな流し)の跡を棚田に拓くということも考えられるでしょう。太田川の名前の起こり「太田郷」もこの頃には成立していますが、当時集落の多くは山の上にあって、大川の近くの水田を主とする本格的な開発は治水技術が進んでから近世になってからのことと思われます。

 その後、全国的には豊臣秀吉の「太閤検地」(1582年)によって、それまでの「郷」「荘」が廃止され、近世の藩政につながる村が集落(惣村)を基礎につくり出され、耕地一筆ごとに法定収穫高が決められ年貢と納税者も決められます。広島では福島正則が慶長6年(1601)に総検地を行っています。この検地の際には入り組んだ村を整理し 村境を明確にさせる村切り」が行われたでしょうが、徹底したものではなかったでしよう。

 これが、藩政時代の6つの行政村、後に大字になる旧村(加計、穴、坪野、津浪、下殿河内、下筒賀)で複雑化につながるものになります。

 開拓伝説のある「杉の泊」の場合、伝説に諸説あるとおり、持ち主のない未墾地に各地から働き者がやって来て早い者勝ちで開拓したので、地域のまとまりとして属人的な仕切りもできず、属地に下殿河内村に属することになっだのでは?という推測も成り立ちます。



 また反面、下殿河内村の杉の泊の近くでは、加計、下筒賀の飛地が入り組んでいます。
 月の子原は加計村、草尾は下筒賀村のままで、明治初頭の配置分合でも整理されず、下殿河内の中に浮かぶ島のようになっています。(地図参照)

 
近世になっても未開地の開拓はあったのでしょうか?

 勿論、未開地への進出は中世以後、藩政時代になってからもありましたし、その帰属についてはそれぞれの事情に応じた形で展開したのではないでしょうか?

 年貢の取立ては村請けで、庄屋が責任を持って徴収しますが、庄屋の仕事もよいことばかりでなく、農民が納税できない場合は借金して責任を果すこともあり、庄屋の力が乏しく進出した土地にまで徴収できず没落することもあったでしょう。また入り組んだ宇佐などで聞く話では「村が違うとお上の目を逃れるため、道一つでとっさに隣村(すなわち隣郡)に移せる」ということもあり、開拓者、農民の方も飛地を年貢逃れに利用したということもあっだのではないでしょうか。

明治になっても調整不可

 一方、大川筋の場合はさらに複雑です。

 津浪から坪野の本郷までの太田川の流れは特に曲折が激しく左岸は坪野村、右岸は旧筒賀村の中筒賀ですが、左岸の飛地では附地の集落が津浪村と坪野村に別れていますし、右岸は中筒賀の中に上殿河内村が集落ごとに点々と存在する状況です。(地図参照)

 こうしたことは明治の近代化のなかで明治22年に制定された町村制でも、出身本村への帰属意識に支えられた藩政村への住民の執着は強くその帰属を調整できなかったのではと考えられます。

 いずれにしても、現在に残る複雑な村境は、この地域の地勢の複雑さが基本にあり、その帰属については、藩政や明治政府の納税徴収の立場と地域住民の自立への志向との攻めぎ合い、力関係のなかで決められてきた歴史的な結果であるといえるのではないでしょうか。

 また、川は筏流しや、上流下流を結ぶ川船交通によって、物資の交流などを通じて人々を結びつけると同時に洪水や、川論=水の利用をめぐる紛糾は、対岸同士が争い、対抗意識を生み出す基にもなる、両面の働きがあることを考える必要があります。

山林に関すること…

 前回複雑な村境の原因として最後のB上げた山林、耕地の売買譲渡による場合については、現在「川・森文化交流センター」の北側にある、滝本集落があります。加計村に地続きでありながら、明治初期までは下筒賀の飛地でした。滝本には江戸初期に「林野の利用権」を下筒賀の本郷の者に売買讓渡し支配が移った事例があります。当時は山林と耕地は一体のもので、耕地や屋敷地も一緒に山林の売買によって帰属が移ったと考えられます。このような売買譲渡は江戸時代にはかなりあったと思われますが、出作、入作として受けいれられ、買った人の本村の帰属にはならない場合も多いと思われます。

 また、山林の場合、村の境界は山頂や尾根が境になることが一般的慣習ですが、「山論」=山の利用権や境界についての争いの紛糾によって、その慣習に反してそれが村境にならなかったという例が、現在の広島市安佐北区小河内地区と安芸太田町穴地区の山林の境界にあります。両地区の境には滝山と松郷山がありますが、境界はその山頂より穴側に大きく入り込んでいます。

 江戸時代には沼田郡小河内村と穴村の間で山論の争いが多かった所で、村境を決める際に両者が出会った場所を境にするということで「小河内側は馬でやってきたのに、穴村は牛で行ったので遅れた」という言い伝えがあります。村境の杭を更新する毎に藩の役人が立ち会ったことが古文書にみえます。確かに現在も国土調査に基づく広島市と安芸太田町の境界は山頂も尾根も無視した線引きになっています。ここばかりでなく旧加計町は小規模な山林の所有者が多くその境界をめぐって山論が多い所ですが、今は山林の価値が低くなり、後継者の関心もなくなっていることが問題です。



 
複雑な村境が何故できたのか、その概要を説明していただきましたが、こうした歴史をふまえて、これからの地域づくりにどのように活かしていったらよいかということですが…

 長年続いてきた旧村=大字への執着、帰属意識は根強く、それは郡を越えた湯来町の宇佐、久日市両地区が、事あるごとに統合の話が出ながら実現できなかったことにも現れています。

 日常の暮らしでは合同の部落会をつくって不自由はないとも聞きますが、お年寄りの中には「ここからは議員も出ておらず、何事でも地域の意見を吸い上げて町政へ訴えることもなく、年寄りばかり取り残される」と嘆く人もいます。平成の広域合併で、役場が遠くなる中で、再び旧村=大字への帰属意識が住民感情として浮上しているといわれますが、太田川筋ではこれまで見たようにその旧村=大字も複雑に入り組んで簡単ではありません。

 また、明治以降、近代に入ってからは小学校区が地域をきめる住民感情として生きてきたあゆみもあります。それが学校統合によって地域から小学校がなくなり、その面での地域の空洞化は致命的になります。

 それでも広域化した町と人口減少と老齢化する集落をどうつないでいくのか?その両者を結ぶ中問の組織がどうしても必要です。今は老齢化に対応して、社会福祉協議会の活動が不可欠です。地区の社協の単位で相互扶助の地域社会を考えることが先ず先決でしょう。

 ここで、住民の意向を詳しく調査しながら、中間組織をどうつくっていくのか?集落の再編成も含めて考えなければならない時がきています。このことは多くの町が直面している問題ですが、特に最近は行政と住民意識の乖離は大きくなるばかり、住民も以前の町内有力者にたよる姿勢から、指導層の代謝があったにも拘らず、新しいリーダーを育てきれていない。明るい自治が機能していない事実とどう向き合うのか、待ったなしです。今それを怠るならば、太田川筋は近い将来、問違いなく濁流に押し流され、枯葉に深く埋もれる恐れがあると、太田川の絶えざる流れが教えてくれているように私には思えます。

 
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