「地域」

入り組んだ村境の謎?
安芸太田町・加計のあゆみの中で…

郷土史家・西藤義邦さんに聞く
2008年 2月 第82号


 広島を出て国道191号を太田川左岸沿いに加計方面に向かうと突如「ようこそ広島市へ」という看板が目に入る。広島を離れてきたのにと不思議に思うが、これは湯来温泉の宣伝看板。湯来町が広島市に合併したのだから看板に偽りないのだが、なぜ旧加計町の中に広島市湯来町がと戸惑う人も多いのでは? また旧加計町の大字には別の大字の「飛地」が多いが、それは何故なのか?
 平成の市町村大合併で、加計、戸河内、筒賀の3町村が「安芸太田町」になったが、行政区が広域化し、役場が地域から遠くなる中で、今再び自然村としての集落=その統合としての旧村(ムラ)=現在の大字が、今後の地域づくり=住民自治の基盤として注目されている。そこで本誌では、郷土史家の西藤義邦さん(72)に旧加計町の旧村と錯綜する村境について飛地を中心にお話をうかがった。(2回に分けて連載、町村名の旧を一部で省略)        取材・篠原一郎



入り組んだ複雑な村境はどうして起きたのでしょうか?

 旧加計町は村境が複雑に入り組んでいる、それは「飛地、飛郷」の出現によるもので、私は主に次の3つの成因を考えています。

@太田川の流路の変更による飛地

 =洪水などで川の流れが変わると、これまでの耕地がつぶれて流路になる。その代わりもと流路であった所に、新しい土地が出現し、入り組みが生じる。その場所に代替地を求めて土地の所属が移転する。

A開拓地が「飛地」をつくる

 =未開の土地を開拓した場合、開拓した人の属する本村が、貢租の対象地として、年貢を取り立て、土地はその村の所属になる。

B山林・耕地の売買、譲渡によるもの

 =他の村の人間が山林・耕地の譲渡を受けた場合、それは取得した人の本村の所属になる。


「自然村」=大字が再び注目されていることをどうお考えですか?そのことと錯綜する村境の関係は?

 ここで現在の安芸太田町に統合される前の加計町のあゆみをふりかえると展…同町の範域は江尸時代の加計村、穴村、坪野村、津浪村、下筒賀村、下殿河内村の6つの旧村からなっています。この旧村は同時代藩制村という牢固とした行政(支配)単位でした。(その後の展開は下参照)




 現在の大字は、原則としてこの旧村を範域としており、その伝統を無視できない社会的集団として1世紀以上を生き延びてきました。現在も住民の地域感情のベースになっています。(土地登記は現在、耕地、山林とも大字の地番)

 しかし、これが全て自然村としての集落の統合体といいうるか、加計町においては疑問が残ります。それは一口に大字といっても飛郷が点在して同じ大字を括れず伝統的、日常生活面から自然発生になっているとは言い切れない面があるからです。このことについては次回に詳しくお話しましょう。


冒頭に紹介した湯来町(宇佐、久日市)の場合は、飛地でも郡境になっていますが…。

 国道191号を広島から加計に向かって、突如湯来町に入る地域ですが、実体はもっと複雑です。湯来町に入って約600mの直線道路は湯来町ですが、旧可部線のガード下から300mぐらいの宇佐は加計町、そして再び湯来町になり、坪野の境の安水橋の下からはまた、加計町になります。わずか3qの間に加計と湯来を行ったり来たり、何故そんなことになっているのか? 明治以降、町村合併の話の度ごとに、この村境の問題は町の議題に上かってきましたが、結局郡境を越えて解消されることはありませんでした。

 このような村境がなぜ成立したのか? その経過は記録文書もなく不明です。私は次のように推論しています。

 まず、上流の坪野よりの「久日市」ですが、ここは、太田川と水内川の合流点に当り、水内川の流れはそのまま、直に山際にあたり、左岸の山を抉る形で流れていたのではないか? つまり湾状になった水面が洪水によって埋められた結果、津伏堰のある現在の流路に変わったのではないか?ということです。

 流路が変わることでこれまでの湯来分の土地(右岸)が川になり、新しく埋め立てられた現在の町並みが湯来町分(久日市)として保有された。久日市(通称のサカーチ)は「砂河内」の訛りともいわれ、そのあたりの経過を表現していると思われます。

 また、宇佐については、もともとこの集落は坪野村から進出して開拓した所ですが、山際は久日市・宇佐とも大字名は加計町の坪野で、その湾曲した(河道跡)内懐に湯来町分の宇佐が国道を挟んで川の際まで占めています。ここは新しくできた土地に佐伯郡下村の飛郷として成立したのでしょう。そこの村境は畑の中の里道にすぎません。



太田川でも流路が変動したのですか?

 太田川の流れは「あばれ川」で洪水の度に左右両岸に迫る山壁の間を幅一杯に「蛇のごとくのたくって」流路が定まらず、太田郷に弥生遺跡が乏しいのは「あばれ川」のために平野の安定がなかったからともいいます。人が住みつき現状を固定化するためには、時代を経て治水、利水技術の進歩を待たねばならなかったはずです。

 このような太田川の流れの変動は各地に見られます。現在の太田川が下流を「佐東川」と言っていた時代、江戸時代初頭の1609(慶長14)年に大洪水があり現在の古川が本流であったのが、現流路に移る異変がありましたが、私はおなじ時期に坪野でも流路の変更があったという仮説を立てています。

坪野は川中島

 太田川の本流は、吉ヶ瀬発電所の下で大きく東に流れを変えますが、流水は坪野の対岸の亀岩という大岩にぶち当たって、その水勢は坪野の善福寺の下あたりから内陸に侵入して分流が山際に沿って流れ、坪野地域の中央部は川中島だったということです。

 亀岩から刎ねかえる水勢は今も坪野の中央上流部を攻撃しています。先人が築いた有名な5基の水刎(水制工)の内、今もある2基と空積みの道路堤防で集落を守っていますが、これを補強して昔に返る分流を再発させない対策が緊要だと考えます。

津浪の地名は史実か?

 また、坪野の上流、津浪地区でも地名に関係した伝承があります。

 津浪の地は「太古、太田川の旧流路は丸山をめぐって還流していたが、太田川の下刻にともない東谷、西谷の浸蝕が大きくなり、現在見られる本流が丸山の西方を短絡し、直流するようになったと考えられている」というのは、その特異な地形について、『加計町史』地誌編で紹介した学説です。地元の伝承は少し違っていて「昔入野山に山津波が発生し、土石流によって環流路が埋まり、文字通り津浪の地域ができたと伝えている」のですが、「旧村地誌編」の筆者(西藤)としては「もっとも、はるかな昔の流路の移動を、当時の住民が目撃して伝えたとは考え難く、地名は後に地形から推測したものかも知れないが…」と断り書きをしています。

明治初期の廃置分合で飛地はどの程度片付いたのでしょう?

 流路の変更による「飛郷」は旧戸河内町との境にある殿賀地区、安芸太田町の大字としては「下殿河内」と「下筒賀」の間にもあります。複雑な飛地、飛郷は1889(明治22)年、殿賀村に一体化するまでに整理分合を進めているのですが、それも不徹底のままに残っています。

 ここには安芸太田町の重要文化財に指定されている「大燈篭」や「玉殿」、無形民俗文化財の「流鏑馬」のある八幡神社があり、「水仙の里」としても知られている所です。


 現在の太田川の流れは、戸河内IC方面から北へ回って八幡神社の山脚に突き当たり、そこから南へ折れ191号の殿賀大橋の下を通り殿賀小学校の方へ流れています。

 殿賀大橋を渡って道の左側の字は高下(コウゲ)集落で、右側が武蔵集落です。高下集落はもともと加計村の飛郷である東高下、西高下、それに上殿河内村の飛郷、北高下に分かれていましたが、現在は下筒賀に併合されています。しかし川の左岸にあった武蔵(現在3戸)は、現在も大字下筒賀の中にありながら下殿河内として残っています。

 上殿分の地続きも、武蔵と同様左岸が流失したので右岸の現在の北高下(河道跡) へ相当の飛地を充当したと考えられます。

 さて、この武蔵集落は、昔は八幡神社の陸続きで、川の左岸にある八幡神社の大杉が倒れた時、その先端が武蔵まで届いたので、その田を「タントトウ」(方言で「目いっぱい届く」)といい、中世に起源を持つ流鏑馬の馬場もここまでのびていて、「馬返し」の地名が残っています。これらの伝承は昔、太田川は現在よりも右岸よりに高下集落の地内の現在の北高下の辺りを(中国自動車道に沿って)縦断していた証左とされています。

飛地は大ツエの爪あと

 高下の下流では逆に大字下殿河内に下筒賀が入りこんでいるところが、現在の殿賀小学校周辺の大田原集落です。

 殿賀地区は、数百年おきに背後の山からの土石流災害に襲われました。いわゆる「大ツエ」で、最近では1988(昭和63)年の「63災害」は記憶にあたらしいところですが、200年前、1796(江戸中期、寛政8)年にもそれ以上の災害があり、さらに250年前、1548年(戦国時代中期、天文17)年には「殿河内の堀と江河内が崩壊し堂見渕へ抜けた」という古記録があり、言い伝えでも「ツエは対岸の西調子にも達した」とあるほどで、一時は左岸と右岸がつながり村境も定かでなくなったと想像されます。

 昔は上流の高下から、殿賀小学校のある堂見橋下流まで、直線状に流れていたのが、左岸のツエによって流路が南にずれて、下筒賀が左岸に取り残され、飛地になった。それが大田原なのでしょう。あるいは右岸の下筒賀村の土地が流路に変わったので、その代償に河道跡を下筒賀の帰属にしたものと考えられます。

川の中にも地籍が…

 このような経過を考えると開拓によってできた飛地が入り組んだ村境をつくり、それに地形の変動による流路の変化が加わって更に複雑な状態を出現させたと考えられます。

 江尸時代中期のものと思われる村絵図を見ていて、驚いたのは、殿賀の右岸の耕地です。大川の水際までびっしり並ぶ短冊形の田畑に、書き込まれている村名は一枚ごとに様々で現在でも「太田川は流れの中にまで、地籍がある」といわれます。

 太田筋の狭い土地を開拓した人々の土地への執着、更に貢租との絡みを考えながら穏当に手堅く対処し、村境を決めてきた流域の歩みには先人の知恵がこめられています。

次回は、開拓と譲渡による飛地についてお話を続けます。
 
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