「地域」

「危機的集落」現地レポート2
吉和郷ダム対策から地域づくりへ
吉和郷、打梨、那須地区を訪ねて
2006年12月 第68号


 太田川の本流、旧吉和村と戸河内町の境にある立岩ダム。ここから本流の流れに沿って約10キロ下ると安芸太田町役場近くの国道191号線に出ますが、この本流沿いに点在する集落が上流から打梨、那須、吉和郷の3地区です。昭和14年、呉海軍工廠など軍需産業への電力供給のために造られた立岩ダム完成から約70年、昭和40年代初めには「吉和郷ダム」という新たな計画が出されてから39年、この3地域はダムとの関連の中で将来を考えなければならない状態が続いてきました。その中で、特に打梨、那須両地域は老齢化率100%、島根県中山間地域センターの分類では滅亡の危機的状態とされる地域。その現状はどうなのか?
(取材・篠原一郎)
 

木だしのムラ

 打梨地区は現在、上流から押峠(1戸)、清水(1戸)、打梨(5戸)の小集落があり、全体で7戸=11人が暮らしています。全員65歳以上で、老人夫婦世帯が4戸、一人暮らしは90歳代の女性2人と60代の男性1人という状況。自治会長の川住房美さん(78)に話を聞くと、昔は夫々の小集落に10戸〜20戸あり、既に消滅した坂根集落をあわせると40〜50戸の家がありました。(現在空き家が14戸)。山の谷間に点在する集落のこと、主な仕事は山の木の切り出しで、ほかはわずかな耕地を耕し、戦前は焼畑もやったという話。戦前から戦後にかけては栗の木が鉄道の枕木用に、その後は杉が電柱用に伐りだされました
 
立岩ダムと打梨

 昭和14年、立岩ダムと打梨、土居の2つの発電所が2年間かけて完成。その建設には多くの朝鮮人が連れて来られて飯場生活、当時戸河内町7千人の人口のうち、2千数百人が朝鮮からの人だったそうです(戸河内町史)。「山の中に逃げて逃げ切れず亡くなった人もいたそうな。わしらの小学生のころも大勢の朝鮮の子供たちがいて、飯場を教室にしていた」(昭和12年、打梨小学校生徒=日本人70人、朝鮮人103人=町史)と川住さんは語ります。ダムが出来る前までは、上流の吉和村方面から伐り出した木を川の流れに乗せて吉和郷まで流し、そこで筏に組んで下流へ運んだそうで、打梨には「木流し宿」があり、打梨の人はその木流しの仕事を専門にしていたということです。ダムが出来てからは運搬も木炭自動車になり、昭和30年代には木の伐り出しの仕事も無くなり、広島への出稼ぎから移転する家も続出し、現在に至るということです。

 今は、集落全体が集まることも年に3回、3月の地区総会、10月の敬老会と神社の秋祭りだけ。敬老会には毎年、全員参加で「いこいの村」からバスで送迎してもらい、昼食を食べて温泉を楽しむとのこと。また、今年の秋祭りには神社のしめ縄を新しく作るので、外に出た若い人が5〜6人帰って来て手伝ってくれたといいます。

 役場からの連絡文書などは、各集落の連絡員が配る体制。自動車が運転できない一人暮らしの女性はデイサービスを利用して、その時に日々の買い物などはすませるとのこと。最上流の押峠に暮らす川本勝美さん(73)夫妻は「運転できなくなりゃここでは暮らせない。子供も時々来るが、将来帰るかどうか分からんし、そんな話は嫌うけぇしていない。この前の祭りでも、ここも後5〜6年もすりゃ無くなるんじゃないかという話も出た」と語ります。
 
「吉和郷ダム」への夢

 吉和郷ダムは滝山川の温井ダム(平成14年完成)と共に太田川下流の洪水防止、都市用水補給などを目的として計画された多目的ダム。貯水量1億トン、堤高120mで、昭和47年大洪水の流量1700トンを500トン程度に落として流す、ダム建設により直接水没する集落は打梨と吉和郷の一部、那須は戸河内と結ぶ生活道路が沈み集落は現状のまま残るという計画です。

 この構想が明らかになったのは昭和42年。立岩ダム建設の際、道路幅を5mにする約束が守られず、太田川本流の流量も減って環境悪化が目立つこと、大水のたびにダムの放流によって被害を受ける、などからダムに反対する根強い感情があり、当初は建設反対にまとまりました。

 しかし、その後全国のダム建設先例地の視察などを繰り返す中で、ダム建設に伴う町の構想を受け入れ、その実現を条件に交渉を進めることで、昭和52年、3地区による「吉和郷ダム対策協議会」が結成されました。(打梨だけは協議会に参加しつつも反対の立場を継続)町の構想では、ダムサイト下流に別の川を作り水を流す、左岸の山を崩してその土砂で現在の河道を埋め立てて水没者のモデル集落を作る、というものです。この構想を基本に対策協議会では、ダム湖を一周する道路を造り、湖畔にはキャンプ場、渓流釣り場などを整備、水と親しみ自然を満喫できる観光地にする、また、三段峡や深入山、恐羅漢山スキー場などの観光地とつないだ周遊道路も建設したい、という夢を描きました。
 
ダム計画進まず39年

 ダム対策協議会発足から29年。この間に温井ダムの建設は進み完成。一方の吉和郷では計画の進展はなく、国交省による予備調査、環境調査は続けられたものの、ついに一昨年には国の方針で新規のダム計画は凍結となり、調査のための予算もつかない、という事態になりました。しかし、太田川河川事務所の話では「計画自体が消えたわけではない。立岩ダムの改修とも合わせて考える方向も続いている」とのこと。立岩ダムは完成後約70年、中国電力では、昭和60年頃にかさ上げ改修計画を発表したこともあり、当然近い将来、改修の必要にも迫られています。
 
ダム対策から「ひまわりの里」づくりへ

 ダム対策協議会はこの間、全国40ヶ所近いダム先例地の視察を続けていますが、計画発表から約40年、亡くなる人も多く、去年、発足以来の役員を改選、吉和郷で宮島伝統の玉杓子などの工芸品、戸河内刳物(くりもの)製作者の横畠文夫さん(70)が会長に就任。横畠さんら新役員はダム計画の成り行きに注視しながらも、折角3地区でまとまった組織だから、ダム対策だけでなく地区の自治会とも合同して、地域づくりに取り組もうと、町会議員の矢立孝彦さんに相談。矢立さんは「3地区の全戸でひまわりを植えよう」と提案。今年の春から3地区足並みそろえて「ひまわりの里づくり」=結(YUN)プロジェクトが始まったのです。YUNとは吉和郷(Y)打梨(U)那須(N)の頭文字をとったものです
 
木地師の里、那須
 
 打梨の入り口から北へ3キロ、山道を登った所が那須地区。昔は打梨小学校分校だった建物が集会所になり、ここを中心に約20戸の家が集まっています。人が住むのは11戸。残りの9戸は空き家です。100歳の最高齢者をトップに17人全員(男性=7人、女性10人)が65歳以上、お年寄りだけの集落です。一人暮らしが5人。山に囲まれ豊富な樹種に恵まれて、江戸時代末期から木地師の里でした。明治中期に島根県から指導者が移住、その技術を学んで昭和になっての最盛期には、約50戸のうち8割が挽き物といわれる椀、盆、鉢の木地、漆塗りの仕事をしていたということ。今は途絶えています。11月初めここを訪問した時は、広場で5〜6人がゲートボールを楽しんでいました。でーサービスに通う人は4人いるが、寝たきりの人はゼロ。みな元気で、雪のない季節はゲートボール、冬になったら集会所で輪投げで遊ぶそうです。
 
元新聞記者の岡田さん移住
 
 そんな那須に、今年4月、Iターンの移住者が現れました。元新聞記者の岡田正孝さん(66)。岡田さんは産経新聞社の広島支局に長年勤務、定年退職後単身で那須に来ました。旧筒賀村出身の岡田さんは、一昨年ダム対策協議会の依頼で記念誌「吉和郷ダム37年の歩み」を編集したことが縁になり、ダム対策協議会の横畠会長のお世話でここに来ました。

 岡田さんの仕事は絵を描くこと。借りた空き家をアトリエにして、那須の風景や暮らしを描いています。描く合間にはお年寄りたちと、ゲートボールや輪投げを共に楽しんでいます。また、自分が住む家や、地区の集会所を絵画や地元の工芸品などのギャラリーに活用して岡田さんの作品を中心に合計30数点の作品を展示しています。

 岡田さんは「来た当初は、木彫り、漆塗りを復活させたり、陶芸や絵描きなどの芸術の場にして活気のある地区にしたいと思ったが、暮らしてみると、最近は人が増えなくても皆さん家族のような生活を楽しんでいらっしゃるんで、このまま落ち着いた生活の場ということでいいのではないかと考え始めたんです。」と語ります。

 那須地区では今、TVの共同受信施設の各戸への配線を光ファイバーにする工事が進んでいますが、空き家を含めて20軒すべての家を対象にしています。将来後継者が帰って来てもTVは視聴できるように、という配慮からです。これにかかる費用約400万円のうち、地元負担の98万円は、35haの共有林を土台にした(財)那須振興会からの出費です。那須は山持ちの豊かな里。十方山には20ha、35年生のヒノキ林があるとのこと。簡易水道整備や林道敷設など、ムラの共同の事業はみな那須振興会の資金を活用してきました。自治会長の藤本兼人さん(76)は「町へ出た若い者にもここにゃーこれだけの財産があることを伝えにゃいけんが、帰って来ても、なかなかそんな話をする間もない…」と語ります。
 
「ひまわり栽培」初年度は勉強不足…

 3地区そろってはじめて取り組んだ「ひまわりの里づくり」初年度は勉強不足で見事に失敗。種まきの段階でカラスに取られたり、背丈の高いものと、低いものの2種類栽培したが、背の高い方は全く育たずダメだったという話。それでも全体で種が80sは収穫でき、勤労感謝の日には吉和郷会館で3地区あげて、収穫祭が行われました。収穫祭には3地区の住民60余人が集まり、町の収入役、旧戸河内町出身の議員さんやJAなどの人々を招いて、ひまわり油で揚げた山菜のてんぷらや、手打ちうどんなどをつくり会食、来年はうまく作ろうと意気を上げました。

 「ひまわりの里づくり」を提案した矢立町会議員は「町村合併以後集落がさびれて、崩壊の方向が目に見えるよう。その中で明るく前向きに、というイメージで、ひまわりを提案したが、すばらしい取り組みになった。自らの手で知恵を出し、汗を流して地域づくりに取り組む今までにない取り組みで、私らも大いに応援の輪を広げたい」と語ります。
 

吉和郷では相次ぐUターン

 
 岡田正孝さんの那須への移住を世話したダム対策協議会会長の横畠さんは「吉和郷は今、36戸、78人ですがこの3年ぐらい人が増えているんです。定年後に夫婦で帰った人が3軒、20代の独身者のIターンの人もいますし、今年に入ってからも4軒の独身者や家族連れが帰っています。ダムについては成り行きに任せて自然体で行きますが、ダム対策で、折角3地区の絆が出来たんで、これを活かして前向きに活動をひろげたい」と語ります。危機的集落といわれる打梨、那須両地区にも新しい可能性が芽吹き始めた、という感想を持ちました。
 
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