「地域」

安芸太田町 限界的集落は60集落〜41%
〜中山間地域研究センター調査から〜
2006年9月 第65号


 島根県飯南町にある島根県中山間地域研究センターが行った集落動向調査によると、中国地方の中山間地域で集落維持が困難になっている集落は1929ヶ所あり、全体の14.3%に上ることが、8月10日、同センターで開かれた全国シンポで発表されました。広島県では579ヶ所(16.7%)に上ります。
それでは、太田川上流、安芸太田町ではどうなっているのか?安芸太田町役場の企画財政課を訪ね、お話を聞きました。 (取材・篠原一郎)
 

危機的集落は15ヶ所

 安芸太田町には全部で3645世帯、8456人(平成18年4月30日現在)が住んでいますが、集落数は145ヶ所あり、その規模は国道筋の市街地では100戸以上の自治会から山奥の数戸の集落まで、平均すると25戸です。町全体の老齢化率は41.2%。合併市町村の中で老齢化率40%を越えるのは神石高原町と2町だけで、県下ではトップの数字です。高齢化と世帯減少で、冠婚葬祭など集落の自治機能が保てない「限界的集落」(註・参照)は60集落。集落数の割合も41.3%(県は16.7%)。更に今後消滅が危惧される「危機的集落」は15集落にのぼります。
 
「3・8豪雪」過疎問題発祥の地

 太田川上流の西中国山地は43年前の昭和38年の豪雪が引き金になった中国地方の過疎問題発祥の地です。急峻な山と谷が深く耕地の少ないこの地域は、昔から山に頼る以外に暮らしの道はありませんでした。遠く明治以前はたたらの古里、大正、昭和は鉄道敷設のための枕木や戦後の復旧期の電柱などの生産、そして下流の広島市への薪炭の供給と山仕事が暮らしを支えてきました。それが「もはや戦後ではない」と言われ、経済の高度成長が始まる時期、エネルギー革命によりこれまでの薪炭の利用は無くなり化石燃料に変わる中で、昭和38年のいわゆる「3・8=サンパチ豪雪」は決定的な衝撃をこの地に与えました。安芸太田町では、昭和40年代までに旧加計町の丁川筋の寺尾、都賀尾、水谷がほぼ消滅、下筒賀の野竹や辺森、旧戸河内では横川などという集落が「挙家離村=過疎集落」として注目されました。
 
昭和一桁世代の人生引退の時期

 それから40年、象徴的なことは、来年から退職が始まる団塊の世代は丁度「3・8豪雪」の年に高校を卒業した人々だということです。この人々以降、学校を卒業したら都会に出ることが普通の状況になり、農村から若年層が失われる一方、当時親だった人々、大正生まれの人々が人生を終え、次世代の昭和一桁世代の人が今、人生の引退時期を迎えているというのが、現在の状況だと言ってよいでしょう。安芸太田町の限界的集落60ヶ所は、国道筋や役場の支所周辺の市街地以外の山間部に点在する集落です。これは昭和一桁世代以上の人々がこれまでようやく維持してきた地域社会全体が、構造的に危機的状況に陥っていることを意味しています。

 そしてさらに「危機的集落」15ヶ所。企画財政課のお話では、一応「自動車の入らないうちは無い」。運転のできない人には「日々の買い物」「病院通い」には町内3つのタクシー会社との契約で居住地と中心部を結ぶタクシー「あなタク」を一日3〜4往復決まった時間に運航しており、これに申し込めば、家まで迎えに来てくれるシステムになっている、といいます。また、老人世帯には緊急の事態を報知するボタンの完備や、介護の世話はヘルパーさんの派遣、デイケア施設への送迎などによって対処できているという話です。
 
緊急に対策実行を提案

 中山間地域研究センターの調査報告は、想定される対策として、千差万別の集落に一律の機能を求めることは間違いであるとしながら…従来からの小規模的な集落単位では無住化する所が発生することを前提に

 @危機管理プログラム=集落機能の決定的衰退や無住化への対応

 A保全継承プログラム=集落機能の衰退や無住化を無秩序な放棄としない資産管理

 B新規参入プログラム=新たな産業の担い手や定住者への門戸開放

 Cコミュニティ連携プログラム=10年先を見通した@〜Bのプログラムを各集落や広域のコミュニティで連携検討

 以上4つの計画・展開を急いで着手する必要がある。と提案しています。
 
空き家バンクの活動

 一昨年3町村が合併したばかりの安芸太田町では、平成26年を目標にした長期計画を今年の4月制定したばかりですが、ここにはグリーンツーリズムなど都市との交流や居住促進として広島都市圏に近いことを活かした「便利な田舎暮らし」を掲げていますが、空き家・休耕地バンクの活動を挙げるだけで、現状の限界集落をどうするかについては触れておらず、企画財政課のお話でも空き家バンク以外特に施策は考えられていないということです。

 来年から始まるという団塊の世代の退職がUターンとして、古里に呼び込めるのか?旧町村で従来から行われてきた空き家バンクの活動などに期待されるところですが、観光交流課に聞くと9月中にデータベース化してインターネットでの活動も始めるよう進めているという話。現在は加計〜5戸、戸河内〜2戸、筒賀〜1戸の貸家希望があり、借り手の希望は、25件になっているとのこと。8戸の貸家があるといっても、すぐ入れそうな家は2戸ぐらいで、あとはかなり手を入れないと住める状態ではないということ。推定では空き家は150戸ぐらいはあるが、都会に出た人は、お盆や彼岸の墓参りの休憩所や物品の保管場所として利用したりして、貸し手はなかなか見つからない現状だということです。
 
太田川流域こそ「流域共同管理」のシステムを

 限界集落の言葉を生み出した大野晃教授は「限界集落の出現など、山や棚田の荒廃は、ダイレクトに災害などで都市につながっていく。だから『流域共同管理』の考え方が必要だ。上流・中流・下流で流域社会圏を設定。山から恩恵を受けている都市など下流の人たちが、上流の山村を支援しながら、流域で人間と自然が豊かになる仕組みをつくるべきだ」と語ります。

 ここでもうひとつ、戦後の高度成長、3・8豪雪以前に急激な過疎化の要因が太田川上流域にはあったことを忘れてはなりません。それは、一瞬にして10万人以上の人が亡くなった原爆の影響です。人口50万人弱の地方都市の30%以上の人が死亡もしくは被爆し就労が困難になった影響です。太田川上流域が日本一の過疎地域になった要因の裏には、原爆により広島市の復興に西中国山地の労働力が吸い上げられたという歴史上の事実があります。

 奇跡的と言われた広島市の復興は背後の農村の労働力の提供があってこそ達成されたのです。こうした様々な経緯から、広島市に親戚を持つ安芸太田町民は100%。逆に広島市の可部、緑井祇園など下流地域で安芸太田町に親戚を持つ人はかなりの数にのぼります。戦後復興のシンボル的存在だった可部線の廃止から3年、町民の気持ちは落ち込み、町は沈滞ムードに覆われています。今こそ相互扶助の精神で、具体的に下流の都市住民には何が出来るのか?を考えて「流域管理システム」を作る必要があります。
 
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