「地域」

勝軍地蔵と桜尾城
(郷土史家 西藤義邦さんの講話)
中世、安芸太田地方を支配した栗栖氏
2006年4月 第60号

 
 さる4月16日、本誌会員、栗栖雅子さん宅の「桜尾ガルデン」で、お花見と山菜摘みの集いを行いました。当日は前日まで降った雨がカラリと晴れて絶好のお花見日和。広島からは、太田川漁協元組合長の渡康麿さんや、丹那漁協前組合長の川上清さんら、長老以下10人、それに加計、芸北から去年秋、本誌で郵便配達の人生を語ってくださった栗栖昌好さんら十数人、合計二十数人が桜尾城の麓にある栗栖さん宅に集まりました。

 午前中は二手に分かれて、近くの深山峡の散策と栗栖さんの裏山での山菜摘みを楽しんで、お昼には、栗栖さんのお母さんと女性の方達の手作りのお料理を戴きました。お昼に、近くの「川・森文化センター」の管理責任者で、このほど完成した「太田川交流館」の「太田川清流塾」塾長に就任した本誌会員の小田 長さんが来られて、最近の町づくりの取り組みを話していただきました。更に、地元加計町史を編纂された郷土史家の西藤義邦さんの中世の頃この地を支配していた栗栖氏についてお話を伺いました。

 栗栖さんの家にはその栗栖氏の系図が伝わり、その歴史を象徴する「勝軍地蔵」があります。当日はその「勝軍地蔵」の像も見せていただきながらお話を聞きました。以下、西藤義邦先生のお話(抄)を御紹介します。
 

栗栖家に伝わる勝軍地蔵

 この勝軍地蔵というのは近世では、徳川家康が戦勝祈願で、お参りする信仰の対象として愛宕山の寺に祀ったといわれます。また、別の説では、単に地域の境界に祀る道祖神に過ぎないとも云われています。この地域ではここの栗栖家と戸河内土居の愛宕社に伝わっています。戸河内の実際寺の永和元年(1375年)の古文書に、実際寺を開祖した栗栖帰源が愛宕山に勝軍地蔵大菩薩の尊像を勧請した、とあるように当時この地にも勝軍地蔵の信仰が浸透していたと思われます。
 
二百数十年、6代続いた栗栖氏

 安芸太田地方は、江戸時代のことは「隅屋・加計家」の「たたら」の関係で古文書も沢山あって研究も進んでいるのですが、その前の戦国時代、室町鎌倉時代のことはほとんど古文書がないので解りません。わずかに残っている資料から推理すると、鎌倉時代の末ごろに栗栖氏が太田地方に入ってきた。どこから来たかというと諸説があるんですが、有力なのは紀州に紀氏という古代からの名門がありますが、その紀氏の子孫ではないかと云われます。

 それが何故太田地方に来たのか、一部には、鎌倉幕府が全国に地頭を設置した。その地頭にも、あとから設置した新補地頭の一人ではないかと云われますが、確証はありません。ただ、有力な説では、この太田地方は宮島さんの厳島神社の神領だったと考えられています。その神領を現地管理する支配者として栗栖氏が入国したのではないか。どこへ入国したかというと、戸河内の土居に、発坂城という城跡がありますが、そこを本拠として太田地方や奥山=旧芸北町=の支配者として入ったのではないか、といわれます。それも江戸時代の「芸藩通誌」などに断片的に書いてあるのです。

 その栗栖氏は二百数十年支配が続いて戦国時代に滅びるのですが、滅びた場合は資料が残らない。山県郡の東部地方は吉川氏が栄えていて資料が豊富ですが、西部の太田地方の資料は無いので闇の中なのです。それにしてもこの発坂城を中心に、ここの桜尾城や、下流の安野や豊平にかけて沢山の城を築いて栗栖一族が分担して支配していたと考えられています。
 
鉱山物が資金源?

 平安時代の文書では、山県郡は5つの郷があったとされていますが、この太田地方に該当する郷がないのです。栗栖氏が入って来て初めて大田郷という支配単位の郷が成立したのではないかと考えられていますが、何を資金源にしていたかというと、元々農地が少ない所で、農業が力を持つのではなく、多分、鉱山物、鉄とか銅銀、最近は「ベンガラ」とかも候補に挙がっていますが、そういうものによって財力を蓄えていたのではないかと地元で考えられ始めています。

 それで、栗栖氏は6代続いてその最後の当主が栗栖権頭で、この太田地方では栗栖氏と云うと権頭(ごんのかみ)ということになっています。この権頭の6代で滅びるのですが、石見の福屋氏という豪族と戦って滅びたといわれますが、これも芸北町の説と太田町の説では百年以上も年代に差があってどちっが本当か分からないのです。
 
6代目栗栖権頭の最後

 先程からいうように栗栖氏の支配した二百数十年間の詳しいことは全く分かっていませんが、最後に滅びた時のことを話しますと、これも福屋氏との「栗福合戦」で宗家の栗栖権頭が討ち死にした伝承と天文年間に一支族を中心に決起した「太田一揆」の記録がごっちゃ混ぜに伝わっていて、後者の方を先にお話ししますと、多分、毛利元就が次第に勢力を得て中国地方のほとんどを支配下に置いていくる中で、一番統治が遅れたのが、この安芸太田地方と山口県の山代地方、山口県の広島県との県境に地形ところですね。そこが最後まで支配するのに手こずったようです。

 江戸時代の書き物からある程度推測すると、毛利氏と吉川氏が一緒になって栗栖氏一族を中心とする一揆を討伐する為に入ってきたと…私の住んでいる坪野地区では毛利氏が一揆を討つため仮本陣を構えたと伝わる家もありました。それで、五日市方面から湯来町、津浪という経路で入って来て一揆を起こした栗栖支族と思われる勢力と衝突します。一説によるとここ土居の沖に太田川の支流の滝山川が流れていますが、この滝山川を挟んで、毛利、吉川の軍勢と一揆勢力が対峙して戦ったという記録が毛利藩の陰徳太平記」という書物にあります。

 後の時代に書かれたもので、どこまで信用できるかわかりませんが、毛利、吉川軍は対岸の河原から弓で射る矢軍になって、その矢は土居側の土手に突き刺さる、こちらの一揆軍から射る矢は向こうの河原の石にぶつかって折れてしまう。一揆側は土手に突き刺さった矢を抜いて射返すということで、初戦では一揆側が有利だったようですが、吉川、毛利というのは本職の軍隊ですので結局やられてしまう。

 一方、それより数年前に起こったという「栗福合戦」もやや似た経緯をたどって、桜尾城も落城し、栗栖軍は戸河内方面に逃げたが逃げ切れず、奥山=旧芸北町に転戦、最後の決戦になりそこで悉く滅びるということで、栗栖氏の最後についての言い伝えがあります。

 これも芸北町の方では、そんな短期間の決戦ではなくて実は、8年間も繰り返し戦争したという話が伝わっています。どちらが本当か私にはわかりません。それで栗栖氏は当主が芸北町で討ち死にするわけですが、それから150年後に加計で、白馬に乗った権頭が夢枕に現れて「自分は奥山で墓に入っているがさびしいので加計に帰りたい」といいます。3人が同じ夢を3晩続けて見たというので、これではいけないと、社殿を建てて奥山から還座したというのですが、この近くの滝本という所に殿宮(とのみや)という小さい社が建っています。そういう後日談もあります。
 
桜尾城と土居

 ところで近年、戸河内で注目されているのは栗栖氏は菩提寺として臨済宗の実際寺という寺を建てるのですが、そこへ京都から雪舟嘉猷というお坊さんを開祖として招くのです。画聖の雪舟等楊さんと名前が似ているので当初、古い時代から勘違いされて、地元でも絵描きの雪舟さんが寺を建てたというようにずっと伝えられていたのですが、実はこの雪舟嘉猷さんは、京都五山の東福寺という大きな寺の31代目の住職を務めた偉い坊さんで、それが何故京都を捨てて、太田地方に入ってきたかというのは謎ですが、戸河内で一生を終えたという記録が残っています。

 この勝軍地蔵がでてくるのは高僧の雪舟さんが亡くなる数日前に、自分の財産を実際寺に寄進するという雪舟寄進状というのが残っていて、それに前述のように「芸陽無為山実際寺」のこととして栗栖氏が勝軍地蔵を勧請して奉納するという古文書があります。

 それで最後まで、この勝軍地蔵は白馬に乗った権頭だと地元で言われていたようですが、実際は全国的にある信仰の対象ですから栗栖権頭ではないということは明らかです。どうしてこの像が、戸河内とここの家に伝わるかは分かりませんが、こういう古文書があることから勝軍地蔵がないと正当性が薄れるとあって、これを確保するのに大変情熱を燃やして継承されたという面もあるんじゃないかという人もいます。

 今日、皆さんがこられた当所は栗栖氏が中世の太田地方を数百年間支配した舞台のひとつで、桜尾城が裏山にあるということはその証明です。廿日市にも桜尾城がありますが、多分この辺が厳島神社の神領であったということから両方の城の名は当然関係があると思います。栗栖氏は一口に神領衆と研究者は言います。


 この桜尾城を加計町では今、文化財として史跡に指定したいということで、準備を進めています。また、太田川のちょっと上流で上殿河内というところがありますが、石垣積みの石工の郷ですが、そこに宗玄寺というお寺があり、そのお寺の屋敷が栗栖氏の館の跡、土居ではなかったかと云われています。なぜかというとお寺の敷地を囲んでいる石積みが中世のものだということ、それから近所に「箕角城」という山城跡があって栗栖氏のものだろうという判断をしています。当地では、何かにつけてちょっと古いものは栗栖氏の関係だというようになるのですが、証拠になる文献がないので確証はありません。

 私は20年ぐらい前から加計町史の編纂に携わっていて、こちらの栗栖さん、屋号を「林」といいますが、このお宅でも古い資料を見せてもらったりしていますが、栗栖氏の系図がこちらに伝わっていることや勝軍地蔵があることなどから、こちらが太田栗栖氏のひとつの系統を踏んでおられるのではないかと勝手に推測して楽しんだりしております。
 
 
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